2015年08月05日

答えの形を想像すること

つかみ所のないふわふわしたものは、
いつまで経ってもつかめない。

あなたは具体的なお話、
つまり、具体的な台詞と絵にしなけらばならない。

しかしどういうものにしてよいか分からないから、
悩むのである。
こういうときは、答えの形を想像するといい。


例えば場所はどこか。
夜の公園か。馴染みのバーか。教室か。塔の上か。
天気や時間帯は。

例えば誰と誰がいるシーンか。
誰がいないシーンか。
誰が必要で、誰は必要ないか。

台詞は。
具体的な全部でなくていいから、
断片を具体化しよう。

こういう言葉、があればいいし、
そうでなかったとしても、
大体こういう感じのこと、と範囲のイメージを持とう。
どういう受け答えでそれが出てくるかをイメージしてもいい。

ああでもないこうでもないとやる前に、
最終着地のイメージをつくろう。

どこに着地するかを決めたら、
どうやって着地するべきかを考えればよく、
そこにどうやってランディグ体勢になればよいか考えればよく、
その侵入経路を考えればよい。

どこへ行くかも決まっておらず、
どうやって着地準備をするかも決めず、
ランディグ体勢も不明で、
着地点も決まっていず、
着地点がどういう地面か分からないなら、
不時着か墜落の二択しかないと思うよ。
そもそも燃料が足りてるのか、その高度を飛べるのかも分からないだろう。


着地という飛行機にたとえたけど、
それは、答えの形を想像することだ。

物語には答えがある。
ということは謎かけがある。
事件と解決は、謎かけと答えだ。

答えが出来ていないのに、問題は立てられない。
悪問ではなく、良問であるべきだ。
ごちゃごちゃとしてスッキリしない、特殊な問題ではなく、
誰もが納得する美しい解で、別解もあるが、
ベストなエレガント解があるものが良問だ。

勿論、最終形が全て見えている超能力者ではないから、
全部を決めるまで出発しないという臆病もナンセンスだ。
それじゃストーリーという冒険を語る意味がない。
どういう感じのゴールにたどり着くのか、
それだけあればいい。



「20枚シナリオ どれだけ書けばいいか」というワードで、
当ブログにたどり着いた人がいるようだ。
この質問の答えが全くイメージ出来ない。
8000字、という数字は答えられるが、
どういう形式で答えれば正解なのかちっとも不明だ。
これは問いのたて方が間違っている。
全ての問いに答えがあるわけではない。
答えのある問いを立てなければならない。
答えの出る問いとは、答えの形が見えている問いだ。
「20枚シナリオ 登場人物 人数」「20枚シナリオ シーン数」
「20枚シナリオ 時間」「リライト 回数」などで検索すれば答えは出るかも知れないが、
そもそも何を知りたいのかが分からない。
二時間のシナリオでも同じだ。ストーリーによるだろ、人にもよるだろ、
としか言えない。


答えの形の見えない問いをしてはいけない。
実人生でやるのは結構なことだが、
物語の冒頭でやるのはアウトだ。
何故なら物語は、ラストでその答えが出るからである。
「人生とはなにか」なんてストーリーの冒頭で問うてはならない。
(もっとも、答えが既に準備されていれば、OKだ。
このすごい例を、「スラムドッグミリオネア」で見ることが出来る)

答えの形を想像しよう。
私たちは、そこに向かって書いていくのだ。
posted by おおおかとしひこ at 09:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック