2015年08月07日

変化の軌跡

長編を何本も書けば自然にこういう流れに落ち着いてくる。
慣れてないときは、この通りではないだろうし、
この流れに無理矢理ストーリーを当てはめても面白くなるわけではない。


冒頭:変化前の日常の渇き、変化したいが具体性はない

きっかけ:事件が日常を壊すが、自身の変化とはまだ関係がない

(ここらあたりで内面の吐露がある場合もある)

第一ターニングポイント:事件の解決が自分の変化をなすかも、という無意識の予感

二幕前半:非日常空間(スペシャルワールド)に身を置くことで、これが変化への布石になる

(ここらあたりで内面の吐露がある場合もある)

二幕後半、ボトムポイント:最悪の敗北で、一端死を迎える
その直後生まれ変わりが起こる。これまでのことを踏まえたことで、
判断や行動やアイデアが変わる。それはこれまでの冒険がなければ決して思いつかなかったこと

第二ターニングポイント:変化はまだ未熟で、クライマックスで最後の試練の予感。
全ての統合がこれ以降行われるという予感

クライマックス:これまでの全ての変化を、解決の最後のワンアクションで象徴。
完全なるカタルシスがここで起こる

ラストシーン:変化後の日常がはじまっている



主人公の内面的変化にスポットを当てれば、
おおむねこの話が進行しているはずだ。
これは主たる変化についてだから、
もっと細かい変化は起こる。
外面的変化やスキルの獲得、あるいは喪失、
環境や習慣の変化などの、具体的な何かはちょいちょいある。
しかしこれはまだ外面的変化であり、
本当の変化ではない。
本当の変化とは、主人公の主たる内面的変化のことだ。

分かりやすく言えば、
この物語がはじまる前はAだったが、
この物語が終わるときはBだ、
と記述したときに、ABが異なるということだ。
性格、考え方、人生観、哲学、死生観などが、
物語を経て変わったということだ。
大抵はよく変わる。それは、人間とはよく成長する生き物だからだと思う。

悪い成長や転落は、それを戒める目的の物語のパターンならあり得る。
(バッドエンド)


さて、一人称と三人称を思い出せば分かるけど、
三人称では人の内面を写すには、
石を投げるしかない。
つまり、ある場面でどういうリアクションを見せるかという、
主人公になんらかの仕掛けをしてやらなければリアクション出来ない。

たとえばラストシーンなら、
誰かが質問して言葉を言わせたり、
何かを行動するようにさせたり、
その誰かがいなくても、
最初の日常をもう一度繰り返して、
以前とは違う反応をさせて変化を示すパターンもある
(ブックエンドテクニック)。



まあこういう話は、脚本理論では必ず書かれることで、
別パターンも沢山あって、
統一的なものはない。

しかし、何回かやればどうしてもこういうパターンになってくるものなのだ。
自分の物語がそうなってないからと言って焦らなくてもいい。
次何を書いていいか分からないから、
無理矢理これを参考にそういうシーンを書く必要もない。

自然に事件と解決を描き、
自然に主人公の渇きと内面を真摯に描き、
自然にその主人公の人間的本質にたどり着いていれば、
自然に、自動的に、そういう構成になる。

なっていないのだとしたら、
これらにまだ迫りきれていないのではないだろうか。
むしろこの構成は、
一番書き手のエネルギーを無駄にしない、合理的な型かも知れない。
慣れないうちはエネルギーを無駄にしながら色んなスタイルの、
内面の変化を描こうとするもので、
何本か長編を書くと自然にこうなるというのは、
慣れてきて無駄な力みが取れてきた証拠かも知れない。

最初にこうでなければならない、
としなかったのは、
無駄な力みは、それはそれで面白いからである。
荒削りの面白さは、何度もやって慣れる前にある。
何もエレガントだけが最良とは限らない。
滅茶苦茶やってて、無駄にエネルギーが駄々漏れしているのは、
それはそれで面白いのだ。
マッドマックス4のギタリストのように。
(あれストーリーには要らないよね。でもとても面白いディテールだ)


脚本理論は、何本も何本も書いた、
ベテランが書くものだ。
だからセオリーが固定してしまったあとのものだ。
僕の書く理論は、あくまでまだフィックスしきっていない、
途上の理論だと思う。
だからちょいちょい変わるかも知れない。

初心者、中級者は、
理論合わせでストーリーを書く必要はないかもしれない。
脚本理論は穴埋めのテンプレではない。

ちゃんと真面目にやったら、そうなった、
というベテランの経験則だ。
そこに至るまでの膨大な失敗経験の末の正解に過ぎない。

初心者、中級者は、
その失敗の経験のほうが大事かもだ。
正規ルートを外れたときこそ、
その人の真価がわかるというものだ。

内面の変化を描くとき、
人間の中でどういう変化が起こっているか、
リアルに考えよう。
それを考えることはリアルに苦しい。
しかしその苦しみから出口が見えたときこそ、
本当に人は変化する。
自分の変化の経験を思いだそう。
他人の変化を観察しよう。

苦しみの中から生まれ変わるからこそ、
カタルシスがあるのだと思う。


あ、勿論、三人称なら、悩んでるシーンは5分以内な。
posted by おおおかとしひこ at 08:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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