まさか主人公の内的葛藤が、
ずっとひとつだと思ってやしないだろうか。
世界は変化し続けている。
引きこもりはその変化の拒否だろう。
部屋にこもろうがこもるまいが、
人生は夢幻の如くであり、
生成流転であり、
祇園精舎の鐘の声だ。
状況は刻々と変化する。
物語の中で扱う事件が大きければ大きいほどだ。
物語とは、それに対してアドリブで解決する様を描くものだ。
決して計画的にいかず、
固定した処理過程を踏まないものが、
物語の中で扱う事件である。
だからこそ、次にどうなるか読めない。
読めないからこそ、物語だ。
こんな状況下で、悩みが固定している訳がない。
それは、状況に置いていかれてしまう。
悩みを一端心の奥底に置いといて、
目の前の事件解決をしないと、
状況は刻々と悪化するのだ(危険)。
悩みはひとつではない。
赤のコードを切るべきか青のコードを切るべきかがカットインすることもある。
あの子の心変わりにまた悩まなければならない。
悩みは状況に応じて刻々と変わる。
そして、元々もっていた悩みが、それらに影響を受ける。
映画は外面的ストーリーを写しながら、
同時に内面のストーリーをも分かるようにする、
高度な三人称形式の物語だ。
外面的影響によって、
主人公の内面的悩みが影響を受け、
変化することも、
内面を描かず、外面的要素(行動、台詞、リアクション)で、
描くものだ。
いやあ難しいね。
悩みが変化しないのは、
引きこもりだけだ。
すなわち、外界と交渉を絶ち、世界に参加していないやつだ。
それは主人公ではない。
主人公は、刻々と悪化する状況の一番中心にいるからである。
だから悩みは変化する。影響を受ける。
だから悩みが解決へ向かうのだ。
悩む。悩む。悩む。
時が来て突然解決する。
それは映画ではない。
悩む。悩みが影響を受け変わる。
悩みが更に次のバージョンに更新される。
そのせいで、解決へ向かう。
それが映画だ。
2015年08月07日
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