2015年08月09日

下手な人の特徴

感情を説明するだけで、
そのキャラクターの感情が伝わったと思っていること。


感情移入にはいろいろな定義があるけれど、
その一つは、
登場人物の感情と、観客の感情が同じになることだ。

その人物が涙を流せば、
その人が悲しいことは分かる。

しかし「分かる」だけだ。
心からそう思うわけではない。
彼の悲しみに一体化し、
まったく同じ感情を持つわけではない。
「ああハイハイ悲しいのね」という気持ちにはなるが、
「なんと悲しいことだ!神は慈悲の心も何もないのか!」
という気持ちになることはない。
勿論、後者のような感情に観客をすることが、
感情移入だ。

それには、どうして彼が涙を流しているのか、
その事情が分からなければならない。
事情をあとから説明してもいいし、
ある事情を描いた上で泣かせてもいい。

たとえば。

ずっと好きだった初恋の子に必死で告白しようと、
自分を改造しようと試みたキモメンが、
必死でダイエットして、
必死でおしゃれして、
必死でいい人になろうと努力して、
ようやく告白したらOKがもらえて、
天にも登る気持ちで付き合ってたら、
実はこれは罰ゲームだと女友達に漏らしていたことを聞いてしまったとしたら。
そのあとに流す涙に説明はいらない。

なんと切ないことだ、と彼の悲しみを共有するだけでいい。
そんな糞女最初からどうでも良かったんだ、
という怒りすら、彼の代わりに覚えていい。
これが感情移入だ。

このあと、彼が彼女に復讐をはじめるならば、
よーしぎゃふんと言わせてやれと感情移入するし、
「彼女は嫌いになれないよ、だってそれほど好きだもの」
と彼が泣いてなにもしないならば、
それにも我々は感情移入することができる。
何故なら、既に彼の事情が分かっているからだ。


下手な人は(極端にやると)こうしてしまう。

泣いている男。
それは慟哭である。
誰か「どうして泣いているの?」
男「初恋の彼女に振られたんだ。
何年も好きで、努力して痩せて、悪い性格も治していい人になって、
ようやく付き合えたと思ったら、
それは女同士の罰ゲームだったんだってさ」
再び嘆く男。
誰か「それはひどいね。悲しいね」

どんなに慟哭の芝居が上手でも、
この悲しみは理性で理解する悲しみだ。
根源は説明だからだ。

一方先に示したやり方は、
彼の感情に一体化するやり方だ。
事情の体験から来る感情を、
彼と共有するのだ。
そこに言葉はいらないだろう。


説明よりも体験だ。

説明で感情を伝えるのは、
「私がこんなに辛いんだから理解してよ!」
とヒステリックに説明する女と同じで、
何の同情も感情移入も湧かず、殺意しか湧かないものだ。
理解したって感情は生まれない。

どんなに辛いか感情移入してほしければ、
今まで辛かった流れを、最初から話して一緒に体験してもらうことである。

それは辛かったでしょう、という言葉が向こうから出るように、
辛いという言葉を一切使わないことである。

辛いという言葉で辛い感情を言うことを、
説明台詞といって、
映画脚本では下の下である。


下手な人は、ここが越えられないようだ。
出来るか出来ないかは、才能という気もする。
古今東西の名作が、
どうやって我々の感情を、いつの間にか主人公の気持ちに同体化させているかは、
研究の余地がある。
しかしそんな超一流でなく、
その辺のポピュラーな物語を眺めるだけでもよい。

事情を一緒に体験させて、
そこから立ち上がる感情が、
見る側と主人公が一致したとき、
感情移入は起こり始める。


下手くそはそれが出来ない。
多分、
自分と他人を区別しきれていないか、
自分と他人の目線を自由に入れ換えが出来ない。
posted by おおおかとしひこ at 15:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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