感情を説明するだけで、
そのキャラクターの感情が伝わったと思っていること。
感情移入にはいろいろな定義があるけれど、
その一つは、
登場人物の感情と、観客の感情が同じになることだ。
その人物が涙を流せば、
その人が悲しいことは分かる。
しかし「分かる」だけだ。
心からそう思うわけではない。
彼の悲しみに一体化し、
まったく同じ感情を持つわけではない。
「ああハイハイ悲しいのね」という気持ちにはなるが、
「なんと悲しいことだ!神は慈悲の心も何もないのか!」
という気持ちになることはない。
勿論、後者のような感情に観客をすることが、
感情移入だ。
それには、どうして彼が涙を流しているのか、
その事情が分からなければならない。
事情をあとから説明してもいいし、
ある事情を描いた上で泣かせてもいい。
たとえば。
ずっと好きだった初恋の子に必死で告白しようと、
自分を改造しようと試みたキモメンが、
必死でダイエットして、
必死でおしゃれして、
必死でいい人になろうと努力して、
ようやく告白したらOKがもらえて、
天にも登る気持ちで付き合ってたら、
実はこれは罰ゲームだと女友達に漏らしていたことを聞いてしまったとしたら。
そのあとに流す涙に説明はいらない。
なんと切ないことだ、と彼の悲しみを共有するだけでいい。
そんな糞女最初からどうでも良かったんだ、
という怒りすら、彼の代わりに覚えていい。
これが感情移入だ。
このあと、彼が彼女に復讐をはじめるならば、
よーしぎゃふんと言わせてやれと感情移入するし、
「彼女は嫌いになれないよ、だってそれほど好きだもの」
と彼が泣いてなにもしないならば、
それにも我々は感情移入することができる。
何故なら、既に彼の事情が分かっているからだ。
下手な人は(極端にやると)こうしてしまう。
泣いている男。
それは慟哭である。
誰か「どうして泣いているの?」
男「初恋の彼女に振られたんだ。
何年も好きで、努力して痩せて、悪い性格も治していい人になって、
ようやく付き合えたと思ったら、
それは女同士の罰ゲームだったんだってさ」
再び嘆く男。
誰か「それはひどいね。悲しいね」
どんなに慟哭の芝居が上手でも、
この悲しみは理性で理解する悲しみだ。
根源は説明だからだ。
一方先に示したやり方は、
彼の感情に一体化するやり方だ。
事情の体験から来る感情を、
彼と共有するのだ。
そこに言葉はいらないだろう。
説明よりも体験だ。
説明で感情を伝えるのは、
「私がこんなに辛いんだから理解してよ!」
とヒステリックに説明する女と同じで、
何の同情も感情移入も湧かず、殺意しか湧かないものだ。
理解したって感情は生まれない。
どんなに辛いか感情移入してほしければ、
今まで辛かった流れを、最初から話して一緒に体験してもらうことである。
それは辛かったでしょう、という言葉が向こうから出るように、
辛いという言葉を一切使わないことである。
辛いという言葉で辛い感情を言うことを、
説明台詞といって、
映画脚本では下の下である。
下手な人は、ここが越えられないようだ。
出来るか出来ないかは、才能という気もする。
古今東西の名作が、
どうやって我々の感情を、いつの間にか主人公の気持ちに同体化させているかは、
研究の余地がある。
しかしそんな超一流でなく、
その辺のポピュラーな物語を眺めるだけでもよい。
事情を一緒に体験させて、
そこから立ち上がる感情が、
見る側と主人公が一致したとき、
感情移入は起こり始める。
下手くそはそれが出来ない。
多分、
自分と他人を区別しきれていないか、
自分と他人の目線を自由に入れ換えが出来ない。
2015年08月09日
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