2015年08月09日

コミュ障が全能感溢れる覚醒をする(実写進撃の巨人批評)

僕はこれと同じ糞映画を観たことがある。
同じ渋谷の渋東会館(現東宝シネマ渋谷)で。

「ゲド戦記」という糞映画だ。
実写「進撃の巨人」は、同じ糞の種類である。
「落下する夕方」テンプレ(過去記事参照)である。
メアリースー症候群(過去記事参照)である。

つまりは、「コミュ障の全能感溢れる覚醒」
という糞みたいな型の話だ。



この型を解説しよう。

主人公は何故か悩んでいる。
何に悩んでいるか分からないから、
寡黙で気味の悪い奴扱いだ。
そしてコミュ障だ。
誰とも友情を保てず、クラスのはしっこで無視されるタイプだ。

これは作者(この場合糞脚本家)の、
自己投影だ。作者はこういう人生を送ってきたちんけな奴だ。

それが、何故か周りから気を使われ、構われる。
普通無視だ。気味の悪い奴は無視だ。
どうせ話しかけたってなにも返してこない。
普通無視だ。
にも関わらず何故かちょっといいポジションにいる。
何故かは不明。何故か慕われる。
それは、ちんけな作者の願望だからだ。
努力することなくいいねと認められたいから、
その願望をそのまま脚本に書くのである。
それが変だという客観視なしに。

そしてこの型の最大の特徴は、
何故か主人公が最強なことだ。
何故か王族の血を引いていた、
何故か伝説の最強の武器を扱える、
何故か巨大化した(進撃)、
何故か竜だった(ゲド)、
などなど。

最強に理由はなく、突然現れる。
それも大抵クライマックス直前の「覚醒」によってだ。
何故か覚醒した最強の主人公が、
何故か敵を一網打尽にして、
皆から祝福される。
それがこの糞話の型である。

もう少し深く見ていく。
ストーリーラインは決まっている。

何故か構われる主人公がいる。
周りが世話を焼いてくれる。
主人公から行くのではなく、向こうから全部来てくれる。
しかし主人公は心に傷を負い、
難しい顔をしているだけで、
その内容はよく分からない。
分からないに決まっているのだが、
何故か第二ターニングポイントまで、
主人公は難しい顔をしているだけで、
周りから構われ続け、捨てられたり無視されることはない。
それが、
第二ターニングポイント、突然覚醒する。
あとは最強の暴れをして、
皆から祝福される。

起伏もなんにもない。主人公は黙って突っ立っているだけだ。


これは、コミュ障のちんけな作者の願望だ。
自分のプライドが傷つけられている日常が、
実は周りからチヤホヤされていて、
しかも最強を見せる絶好の場面が何故か来て、
しかも毎度覚醒するような面倒なことはしなくてよく、
覚醒は一回きりでいいということ。
楽して最強を見せたい、
プライドだけは高くて実力のない、
ちんけな子供の妄想である。


おまけにこの脚本家は、どうやら童貞らしい。
なんだあの人妻の誘い方のリアリティーのなさ。
なんだあのカップルのセックスのリアリティーのなさ。
なんだあの歳上に取られた元カノへの叫び。
(「年上の大人」のステレオタイプな表面的表現)
16ぐらいならぎりぎり分かるが、
三浦春馬いくつだよ。
いくつ設定だよ。
自分の思い通りにならなかったら、
いやだいやだと泣き叫ぶ子供かよ。



糞ゲドの宮崎吾朗は、コミュ障の子供で、
創作物語を書くにはあまりにも童貞だった。
この糞映画の脚本家、渡辺雄介(糞ガッチャマン、糞ガンツの脚本家だ)と、
町山智浩は、
創作物語を書くにはあまりにも童貞だ。

もはやこれは、精神的な病だと僕は思う。

何故なら、最近こんな話ばかりだからだ。


現実で恵まれないぼくちゃんが、
架空の世界で何故か慕われ、
架空の世界で何故か最強で、
架空の世界で何故か影のある傷ついた男。
それは中二の黒歴史ノートにでも書きなぐってろ。

これはプロの映画だ。
お前らの心の治療の場ではない。
1800円返せ馬鹿野郎。


夜更けとともに出発して夜明け前に壁を崩す計画が、
なんで途中で夜営してたん?
そこが全く分からない。
休まず行軍でしょそこは。
セックスしたりリンゴ食ってる暇があったら
徹夜で壁までいけや。
仕事したことないんかおまえは。

人類の行く末を決める最後の計画が、
杜撰過ぎるにもほどがある。
中国か。


樋口のド下手演出は、どうしようもない。
多分アニメのコンテと実写の芝居の区別がついてない。
実写は顔芸ではないし、
イマジナリラインを守りながらピボットするものだ。
モンタージュの基本も知らないカット割りは、
話を分かりにくくすることにしか寄与していない。
ここは脚本論なのでこの程度にしておく。

ひとつだけ塩を送ろう。
あの気持ち悪いオッサンたち、全員白人なら、
かなりスタイリッシュになったぜ。
新橋のオッサンだから気持ち悪いのさ。
だって最初のカッコエエ肉人は外人骨格だったじゃん。

新橋のサウナに紛れた恐怖じゃなくて、
絶対的な巨人と対峙した恐怖を描きたいんでしょ?
ワンダと巨像をプレイしたことないのかね。

そんなことすら判断出来ない監督は、
ビジュアル管理の資格などない。

もう一個思い出した。
あの不発弾の場所、広すぎでしょ。
壁長すぎ。万里の長城かそれ。
そんな壁作れた技術力どこへいったんや。
ちょっと壁作ってるうちに横から回り込まれたやろどう考えても。


僕は、原作「進撃の巨人」の漫画は、
巨大化したところでアホらしくなって止めた口だ。
ちょうど今回辺りまでだね。
アニメも漫画の続きも見てないので、
思い入れも何もない。
どうやら人間ドラマが熱いらしいのだが、
この映画に関しては-100度程度だろう。
何を楽しめばいいのか分からない。
もしよかったら原作ファンの方、
原作の何が楽しめるのか教えてください。

原作に思い入れがある人たちは、
僕以上に怒っていると思う。
僕はガッチャマンで同じことをやられたので、
その気持ちは良く分かる。


巨大化するところを第一ターニングポイントか、
ミッドポイントに持ってけば、映画的な脚本になったと思う。
それぐらいこの脚本は、ダメな上にスカスカだ。



なんかさ、脚本家には、
精神年齢テストでも設けたら?
コミュ障の中学生に脚本書かせたらだめでしょ。
posted by おおおかとしひこ at 23:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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