2015年08月10日

理想の流れと現実を対比(進撃の巨人批評2)

ここで書いている理想の流れと、現実を比較してみよう。


冒頭:世界設定

ここはサラリとアニメでやっていて、上手だと思った。
ただし、
「100年たって、人類はその恐怖を忘れていた」
がないのは何故か分からない。
それを前ふりすれば、平和ボケ
(巨人なんて伝説ですよとか)をこのあと上手く実写で描けただろう。


一幕前半部:きっかけ(大巨人襲来)まで

登場人物の日常を描き、
人間関係や渇きを描くこと。

日常や三人の関係は、描けていない。
下手なアニメを想像した。
日常というのは、
「いつも繰り返しやっていることを描く」のではない。
「バックストーリーのある今」を描くことだ。

主人公がまるで分からない。
どうやって飯を食い、どうやって生活し、
どういう人間に囲まれて生きているのか。
一人でいるからダメなのだ。
主人公は必ず集団の中で描くべきだ。
集団に馴染めないことを集団の中で描けば、
その渇きを描けるというのに。

主人公の渇きが分からない。
不発弾と巨人変身の関係が分からない。
クライマックスとここは連動するべきだ。
仮に後編と連動していても、
前編のクライマックスと連動し、
かつ後編のクライマックスと連動するべきだ。
前後編の冒頭というものはそうあるべきだ。

従って既にここで不合格。

三人の関係性を全部台詞でやっているのが下手の証拠。
アクションでやるべき。
「叩いて泥落ち→海→外の世界」は唯一、
アクションで描く映画的な展開だったが、
これがクライマックスに使われて初めて映画的な構造になる。
一度も使われない伏線は、伏線ではないから、不要。
「俺は壁の外に出たい」と一言ですむシーンが長かっただけ。

例えばこのパートは、きっかけ(大巨人襲来)を迎えに行くために、
集団の中で「外に出たい」と違和感を感じている主人公が、
仲間を誘って、こっそり壁の外に出ようとする、
という流れで良かったはずだ。

いつかしたいことを描くから、話が進まないのだ。
今実行していることから、いつかしたいことを描くのが映画だ。
一人称と三人称を混同している。


きっかけとなるシーン:

大巨人襲来だ。とても良くできたCGだった。
この映画の中で最も出来がよい。つまり、ここがピーク。

他方、人間の芝居がヘボすぎた。
あれだけのコンクリの破片が飛んできて主人公に当たらないのは変。
他の誰かには当たるべきだろ。
全体にご都合。


そこからの展開部:

それを受けての主人公の行動。

まあ逃げるしかないやろな。
だけれども、主人公の動機が「壁の外に出たい」ならば、
あの時壁の外に出ようとするべきだった。
「壁の外の絶望」を見ないと意味がない。
あと、これ原作でも謎なのかも知れないが、
大巨人は何で途中で帰ったの?
そのまま来たらええやん。飯食うためやったら腹減ってるやろ大巨人も。
巨人消滅も含め、ゲームっぽすぎる。
原作でも謎なのかも知れないが、ゲーム落ちこれ?
(この謎が伏線になっているのなら、すいません)

これ以降は新橋の巨人だ。
オッサンオバハンを外人でやればなかなかのビジュアルになることは、
既に指摘した。


第一ターニングポイント:

主人公が問題解決の決意をして、内的動機と外的動機を一致させる。

「軍隊に入った」というのはなかなかいい。
が、彼個人のものが見えない。

少なくとも、
立体機動訓練シーンなどを描き、
成績抜群で、他の人とはモチベーションが違うとか、
彼個人のものを描くべきだ。
その上で、外壁爆破作戦があることを知り、
「自ら」志願するぐらいでないと。

この「自ら」が重要。
現在のものは流されているだけで、
何も面白くない。

ちなみにこれ以降は主人公は、流されているだけのメアリースーである。
うううう唸って不満を表現する赤ん坊である。
フェンスの別れのシーンでも、ただの傍観者だ。
これは作者の精神年齢である。


第二幕前半部:

危険が一杯のスペシャルワールド突入。
「巨人との戦闘」というこの映画の売り、
即ち立体機動シーンが期待される。
大抵ここでは上手く行って
(つまり人類は巨人に対抗できるかも、と思わせる)、
ミッドポイントでかりそめの失敗が描かれる。

現実には、ここから急速に詰まらなくなる。
上に上げた期待される流れに何一つ答えていないからだ。

ミッドポイント:
かりそめの敗北としよう。
例えば立体機動の指揮者(石原さとみ)が死んで統率が乱れるとか。
立体機動を巨人たちが覚えはじめて、対処されるとか。

それでも虎の子の爆薬をゲットするという展開かもね。
(こういう展開にするなら、
人の声に敏感という設定を捨てて、
巨人たちの中突っ切って、捨てられた施設の地下にある爆薬をゲット、
そのまま外壁へ向かうという大筋で十分だった)


二幕後半部:

絶体絶命のボトムポイントへ、転落していく。
ここで死んだはずの水原と再会かな。
主人公の動機、復讐が揺らぐ。
絶望のボトムポイントをどこに置こう。
部隊の全滅だろうか。
数名を残し、爆薬も盗まれ(ここよく分からないが)、
絶体絶命のとき、
立体機動の新しい使い方を主人公が思いつくのかね。
仲間の死体から立体機動をはがして、
ダブルにするとか。
(これは大抵冒頭に伏線がある。
不発弾の伏線を引くならここと関連するはずだ)
いずれにせよ、希望が見えなければならない。
希望は何?生還?
例えば手に入らなかった巨人の細胞を、
入手する方法とか?

第二ターニングポイント:

「細胞を持ち帰るために生還すること」と、
仮に焦点をしてみる。
主人公がボトムポイントから立ち上がることで、
成長の可能性を示し、渇きの現実的帰着点を設定する。
それがセンタークエスチョンになるはずだ。

従って、渇きを仮に壁の外に出たいにするならば、
「巨人の細胞を持ち帰り生還すれば、
外に出られる日が来る」と言わせればいい。
主人公は終始焦点をリードするべきだ。


三幕(クライマックス):

巨人たちとの生還をかけた闘い。
しかし絶望的で、
主人公も食われる。
で、何故か巨人化。
(ここに伏線が張られていれば納得が、
何もなければ唐突な驚きがある)
生還するが、謎は後編へ、という感じか。



僕はアニメを見ていないし、
原作も最初しか見てないので、
人間関係とかちっとも分からない。

しかし映画脚本の原則にしたがって、
実写で見た要素を再配置しただけだ。

これぐらいのことが出来なかった脚本家は、
原作やアニメにとらわれたか、
無能かのどちらかだ。

しかも原作者自身が、
壁に囲まれた世界と襲ってくる巨人、
以外は何してもいいんじゃないですか、
とまで言ったらしい。
じゃ、面白いの作れないのは、
ストーリーをつくり、人間を描くべき、
脚本家の責任ではないか。



流石に脚本が糞だということは、
皆気づいているだろう。
糞を糞と言っても、世界は良くならない。
糞を糞と認識できないのも問題だから、
糞を糞と言うことは良いことだ。
その先は、糞を捨てなければならない。
そして、理想を見なければならない。
さらに、理想を作らなければならない。
posted by おおおかとしひこ at 11:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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