ある意味では真実で、ある意味では嘘だ。
一人になるシーンを禁じればすぐ分かるが、
集団の中で何か積極的に喋り、
その集団を説得し、率いたりする人間を、
描かなければならなくなる筈だ。
それが書ければ問題ない。
書けないよそんなことしたことないもの、
とコミュ障は言うだろう。
「自分を書いてはいけない」という原則を思いだそう。
主人公は作者ではない。
だから積極的でコミュニケーションも良好だ。
なんなら冗談で好きな子を笑わせ、
好きな子に好かれることすら自然に出来る。
それは、作者ではないからだ。
作者ではない、そのような他人を描くのが、
三人称の物語である。
殺人をしたことがなくても殺人犯は描ける。
それと同じで、
コミュニケーション障害であっても、
コミュニケーションは描けるはずである。
あなたがコミュ障かどうかは、
「他人を描く」原則を守る限り、
物語とはなんら関係がない筈だ。
にも関わらず主人公がコミュ障のメアリースーなのだとしたら、
その原則を破っているか、
あなたに他人を書く実力がない、
つまり現実の観察力が足りないだけだ。
進撃の糞脚本家は、恐らくその両方だろう。
渡辺雄介。糞大鷲のケンや糞エレンを見る限り、戦犯はお前だ。
そういえば糞ガンツもそうだったよな。
2015年08月11日
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