2015年08月11日

コミュ障は脚本が書けないのか?

ある意味では真実で、ある意味では嘘だ。


一人になるシーンを禁じればすぐ分かるが、
集団の中で何か積極的に喋り、
その集団を説得し、率いたりする人間を、
描かなければならなくなる筈だ。
それが書ければ問題ない。

書けないよそんなことしたことないもの、
とコミュ障は言うだろう。

「自分を書いてはいけない」という原則を思いだそう。

主人公は作者ではない。
だから積極的でコミュニケーションも良好だ。
なんなら冗談で好きな子を笑わせ、
好きな子に好かれることすら自然に出来る。
それは、作者ではないからだ。

作者ではない、そのような他人を描くのが、
三人称の物語である。

殺人をしたことがなくても殺人犯は描ける。
それと同じで、
コミュニケーション障害であっても、
コミュニケーションは描けるはずである。


あなたがコミュ障かどうかは、
「他人を描く」原則を守る限り、
物語とはなんら関係がない筈だ。

にも関わらず主人公がコミュ障のメアリースーなのだとしたら、
その原則を破っているか、
あなたに他人を書く実力がない、
つまり現実の観察力が足りないだけだ。


進撃の糞脚本家は、恐らくその両方だろう。
渡辺雄介。糞大鷲のケンや糞エレンを見る限り、戦犯はお前だ。
そういえば糞ガンツもそうだったよな。
posted by おおおかとしひこ at 12:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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