2015年08月11日

デジタルは人を幸せにしない:コピペは創作か?

「エンブレム佐野」が面白い。
そのネーミングの素晴らしさ、ネットの力は凄い。
ついにはフランスパンの写真を素人ブログから盗用、
そのまま使用した過去まで暴露された。

コピペの何がいけないのか?
それは、何も考えなくなることだからだ。


たとえば、
2000字の短編シナリオ(僕の短編脚本でもいい)を、
書き写すことを考えよう。

アナログならば手書きで2000字書き写すしかない。
デジタルなら、コマンドA→C→Vの三手順だ。

どちらが良いだろう?


デジタルは、手間が0になる。
だから素晴らしい。
アナログでかかっていた手間を省ける。
合理化の極みだ。

果たして「本当に」そうか?


アナログで書き写すことを考えよう。
6000字だが、例えば僕の「たった一滴だけの乾杯」を書き写すことを考えよう。

一字一字書き写すことは、
無にでもならない限り、何かを考えることになる。
どうしてここは改行なのだろう?
どうしてここは漢字じゃなくひらがななのだろう?
どうしてここは○○という台詞なのだろう?
どうしてここは○○という場所なのだろう?
どうしてAから台詞を言い、Bから台詞を言わないのだろう?
どうしてここで○○と言わないのだろう?
どうしてここは長くここは短いのか?
どうしてこのシーンの次がこのシーンなのか?
どうして全体がこういう構成なのか?
どうしてラストがこうなのか?
どうしてトップシーンがこうなのか?

疑問に思わないのなら、
書き写すことをただの労働だと思っているバカである。

疑問に思うのは、きちんと自分でものを考える、
よい学生だ。

全てに答えが出る訳ではない。
しかし書き写すことで、
少なくとも問いが出てくる。
出たからには解決しないと気持ちが悪い。
ある種の疑問は、僕の脚本理論から答えが出るだろうし、
ある種の疑問は、全体が分かれば分かることかも知れないし、
ある種の疑問は、一般常識で答えが出るかも知れない。
こうやって、
アナログの書き写しは、
自分の中に問いと答えを育てる。

もっといいことは、
ゴルフにたとえると、
達人(僕が達人かどうかは置いとく)のスイングを、
そのまま自分で体験出来ることにある。
スポーツではこうはいかない。
(水泳とかで、無理矢理手を引っ張ってオリンピックレコードの時間とスピードを
体験させるというやり方もあるらしい)

第一稿でいきなりこう書いたかまでは分からないが、
少なくとも最終稿はこうだという、
達人の太刀筋を、そのまま味わうことが出来るのである。

一字一句にどんな思いが託されているか、
読解力が上がれば上がるほど沢山のことが分かるものだ。


書き写すことは、
昔から学習の基本だと言われている。
つまりその間に自問自答し、
しかも達人の呼吸を沢山経験できる、
重要な学習時間だと認識されていたということだ。

例えば物真似芸人は、芝居もきっと上手いだろうね。
基本がからだの中に出来ていれば、
応用して動けばいいだけだからね。


これがコマンドACVでは、
何も考えなくなる。
何もだ。


だから、コピペは合理的だが、
真に合理的ではない。

コピペは考える力を育てない。
コピペは手を育てない。
コピペは実力を育てない。

人は真似る所から学習をはじめる。
コピペは学習の機会を奪っている。


エンブレム佐野は、
コピペだけで仕事をしてきたのだろうか。
実力は、その間、育たなかったに違いない。


デジタルは人を幸せにしない。
少なくとも創作においては。
posted by おおおかとしひこ at 22:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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