実は、映画の殆どはこれではないか。
映画はアクションだとか、
ラブロマンスだとか、
異物との出会いであるとか、
目立つものを捉えていてもダメで、
殆どの尺をしめるこの部分を書けなければ意味がない。
(例えばアクションパートに対してドラマパート、
なんて言われるけれど、このドラマパートこそが脚本だよな)
映画とは、日常に現れた新しい事件のことだ。
それまでの(不変な)日常があって、
ある日事件が起こって、
日常ではない状態へ移行する。
たいていすぐには解決せず、
どんどん悪化していったり、
ある部分が解決してもまた別の問題になったりする。
これが完全解決するまでが映画だ。
(そしてその結果、それまでの日常が上書きされる。
これを変化という)
さて、
事件が起こると人はどうするか。
周りの人としゃべるはずだ。
一体どういうこと?こわいね、変だねと。
解決していく過程で人はどうするか。
○○しなきゃ、いや○○のほうがいい、
○○に相談してはどうか、など。
人は人と話すことで、
情報や感情や事情を共有する。
あるいは、互いの違いを知ったり、
変えようとしたり、嫌がったり、違いを認めあったりする。
解決したあとはどうか。
やっぱり人と話す。
良かったね、一生一緒にいようね、じゃあまたね、
などだ。
「一人の場面を禁じるメソッド」は、
強制的にその場の人と話さざるを得ない場面をつくる。
知らない人だろうが知ってる人だろうが、
人と話すことで、事態は変わって行く。
勿論他愛もない世間話をするのではなく、
事件とその解決について話しながら、
それぞれの事情や感情も共有しながらだ。
事件や解決が、普段ならしゃべらない人同士にも、
会話の種を与えていると考えると、分かりやすいかもしれない。
ところで僕は、深夜タクシーで帰るとき、
寝る時もあるけど、
運転手とよくしゃべる。
話題を適当に振りながら焦点をみつけ、
それを掘っていく練習がわりにだ。
キャバクラでも出来るだろうが、
酒が入ると難しいのでシラフのときにそれをしたほうがいい。
どうせ一期一会だと思うと、
何でもしゃべれるものだ。
自分のことをしゃべったり、
相手のことを聞いているうちに、
なんだか友達になったような同調が生まれる。
この感じが、
映画のドラマパートには必要なのではないかと思っている。
会社の飲みにケーションを嫌がる若いやつは、
こういうスキルを磨いていない。
だから脚本の会話シーンも下手なのではないかな。
やりちんなら、女の子との会話シーンも得意かもね。
僕はまあまあ?
映画というのは、
劇的な部分と、劇的でない部分とで構成されている。
劇的でない部分は、
殆どが、
誰かに連絡して、会って、話す場面だ。
そしてそこが面白くないのは、
下手な脚本だ。
(糞進撃が詰まらないのは、
こういったドラマパートが異常に下手なことにある。
糞脚本家は、普段でもこのように会話、
つまり相手がいる時のことが下手なのだろう)
2015年08月13日
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