昔話、民話というものは、
我々が書くべき「おはなし」の原型のひとつだ。
口づたえで繰り返し繰り返し伝わるから、
次第に変形して行き、様式美が生まれる。
つまりは型だ。
今回はとくに、
発句と結句について。
つまり、オープニングとエンディングについてだ。
発句の役割は、
現実の世界からおはなしの世界へと、
人々を移行させることだ。
結句の役割は、
その逆で、
おはなしの世界から現実の世界へと、
人々を移行させることだ。
発句の型には、
「昔々こんなことがあったんだと」とか
「これは本当の話だが」とか
「まだ○○山がもっと高かったころ」とかある。
共通するのは、
これは「今ではない」ことと、
「しかし本当だ」ということだ。
本当、というのは報道ほど正確かどうかは分からないが、
「これを本当にあったことと一端信じて聞く」ことの約束だ。
これは、全てのフィクションの共通の了解事項である。
報道のような事実関係、証拠など(ガワ)が真実などではなく、
フィクションにおいては、
そのディテールで本当に何を語ったのか(たとえば友情は大切だ、
などの、意味)が真実であるべきだ。
フィクションとは、嘘のディテールを用いて真実を語ることである。
報道とは、真実のディテールで真実を語ることで、
詐欺とは、真実のディテールで嘘を語ることだ。
昔話の発句は、
「今ではない」ことで、嘘のディテールを用いることを宣言し、
「しかし本当だ」ということで、意味が真実であることを宣言する。
すなわち、
これは優れたフィクションであることを、
宣言するのである。
発句は定型である。
語り継がれるうちに、
これがはじまったら「おはなし」がはじまるぞ、
という型になったのだろう。
さあ来た、さあはじまった、と、
おはなし好きはワクワクしたことだろう。
今夜も語り部が何か話しているぞ、と。
結句はその逆だ。
めでたしめでたし、どんとはれ(どんどはれ)、
などの型で、
ここで語ったことは本当にあったことですよ、
リアルタイムと違うディテールですが、
意味的には本当にあったことですよ、
と、リアルのものからではなく、心にリアルを与えて終わる。
これが来ればおはなしは終わりだ。
現実とはちがう世界はここでおしまいだが、
現実にない訳ではなく、
私たちの心のなかに真実としてあるのである。
その世界が完成して、
あとはそのお土産を持ってもとの世界へお帰りください、
ということである。
それは、ひとつの型になっている。
だから昔話の作者は、
オープニングとエンディングを考える必要がなかったかも知れない。
何でもかんでも、
「昔々」と「めでたしめでたし」で挟んでしまえば、
おはなしになったかも知れない。
創作物語は、その型を用いない。
つまり、オープニングとエンディングを創作する。
オープニングとエンディングの役割はなんだろう。
それは、発句と結句のように対になる。
(同じ場面で何かが違うという変化を示す、
ブックエンドテクニックは対の典型だ)
場面で対になる必要はない。
意味で対になればいい。
これはフィクション、
すなわち本当ではないが本当であるという宣言、
これは本当ではなかったが本当であるよという結び。
あなたは、
どういう嘘を語ることで、
どういう本当を語ろうとしているのだろう。
昔話に学ぶことはとても大きい。
2015年08月14日
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