前記事の続き。
○と△を対比的に描いて、一体何を描いたことになる?
善と悪を対比的に描く。
男と女を対比的に描く。
積極的な人と消極的な人を対比的に描く。
アメリカ人とイギリス人を対比的に描く。
生と死を対比的に描く。
これで一体何を描いたことになる?
精々、「人間には色々いる、様々な面がある」
しか言えないのではないか?
そんなこと、分かっとるわ。
対比的に描いたことに、自己満足してる奴だけが、
○と△を対比的に描いた、
なんて言うだけだ。
人生の明と暗が対比的に描かれているとする。
○をした人間が明に、
△をした人間が暗になったとしたら、
それは人生は△ではなく○だということを描いている。
明と暗を対比的に描いているのではない。
傑作「ポセイドンアドベンチャー」では、
ここに留まり助けを待とうとする神父と、
自ら脱出しようとする牧師が対比的に描かれる。
神父に盲目的に従った多くの羊たちは、鉄砲水であっという間に死ぬ。
脱出しようとする意志を持った者だけがそれを避けた。
これで描いていることは、
生と死の対比ではなく、
神父と牧師の宗派の対比でもなく、
「天は自ら助くる者を助く」ということである。
(神父と牧師が逆かも。
どっちかがカトリックでどっちかがプロテスタント)
○と△を対比的に描く、
なんて言うやつは、だからバカだ。
脚本の素人であるから、言うことを聞く必要はない。
2015年08月14日
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバック