2015年08月15日

物語に画風はない

と、極論してみる。
正確には、他の芸術ほど、
画風と中身のバランスで言うと、画風の要素が少ない。


絵を考えよう。
画家のタッチがある。

この人は女の子を描くのがうまいとか、
迫力のある構図がうまい人とか、
緻密なメカが上手い人とかいる。
それぞれが個性であり、
それが愛される。

それ以外の画風は歓迎されない。
○○といえば○○、というのが確立されて、
それを求められる。

北斗の拳の原哲夫に、バイオレンス描写以外を求めるのは、
原哲夫が勿体ない。
繊細な少女漫画や、トリックアートとか描かせてもしょうがない。

印象派のような独特のタッチがいい人に、
ペン画を描かせても多分ダメだろう。

一人の人間が生み出すオリジナリティー溢れる画風というのは、
おそらく一種類で、(複数の画風を持つ人もいるが)
どんな画風でもいける人はいないだろう。

例えばワンパンマンの村田なんとかさんは、
どんなタッチでもいける変人だけど、
それが逆に「自分の絵」を持っていない弱点がある。


絵とか画風というのは、ガワだ。
漫画は内容と絵のバランスは5:5ぐらいで、
絵の分量は大きいと思う。


さて映画はどうか。
内容と絵の分量は、僕は9:1ぐらいだと思っている。
正確にいうと、
シャシンは、画風ほど変化がないから、
よっぽど安い絵以外は「まとも」だし、
高い絵はプラスに寄与する程度にしか効果がないと考えている。

では内容の画風、
いわば作風はどうか。

ある種の傾向はあるにせよ、
一種類の人間しか書けないということはないはずだ。
物語というものは、
異なる人間たちのもめごとであるからだ。

もし一種類の人間しか描けず、
あるいは、正義の味方と悪と、ヒロインと友人と、
クールな謎キャラしか書けないのだとしたら、
あなたは画風のことばかり考えてしまうだろう。
何故なら人間への理解が浅すぎるからだ。
浅い知能で知覚出来る範囲は、
目で見た範囲でしかないからだ。


僕は、映画の絵には有限性があると思っている。
それに対して内容は無限だ。

物語に画風はない。

もしある、というのなら、
あなたは毎回同じ話を書いているだけだ。

毎回違うものを作ることが、
芸術の定義だぜ。
自己模倣なんてなんの意味もない。

物語は変化だ。画風という固定は、物語の死である。


一つ処に留まらず、常に形を変え続ける。
それが風だ。
posted by おおおかとしひこ at 12:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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