2015年08月17日

ペシミズムは映画に必要か?

少し難しい話をする。

バッドエンドや、絶望で終わる映画は、
果たして正しいのだろうか?

僕は、高度な皮肉になる場合以外は、
これを認めないことにしている。


世界は絶望的だ、生きる価値はないとか、
この無為の平野を、我慢して生きるのだ、
神は死んだ、宇宙は死へ向かう、だから諦めるのだ、
などというセカイ系中二的な発想が、
バッドエンドには多いような気がする。

自分だけが、世界は絶望的だと発見し、
それを主張している、という感じが、
バッドエンドに多いような気がする。

あほか。そんなん、みんな知ってるわ。

世界は絶望的だ、という主張を中二病がしようとするとき、
「自分が世界を変えられない無力感」を、
そのまま「世界は絶望的だ」と主張して、
自分の責任を放棄している場合がある。
自分は世界を変えられない無力かも知れないが、
別の人なら世界を変えられる可能性がある、
こういう時こうすれば世界を変えられる、
ということに考えが至る前に、
自分の無力的敗北で話が終わっているのである。

それを中二病だと僕は批判する。
客観性がない、という批判だと単純すぎる。

自分(とヒロイン)しか世界にいないというのは、
セカイ系の世界観だが、これも同じだと思う。

世界には自分とヒロインしかいない訳ではない。
近所の人々だけでもない。
隣の県には、自分の県と同じぐらい人がいる。
おれもいる。
もっと凄い人もたくさんいる。

その人たちが蠢き、時々関係しあうのが世界だ。

世界は絶望的だと簡単に主張するのは、
世界を知らない青二才にすぎない。

世界は希望に満ちている、
と盲目的に信じるお花畑よりも、
多少頭がいいけれど、
まだ頭が悪いと僕は思う。


世界は希望に満ちている訳ではない。
世界は絶望的だという前提で、我々は世界を良くしようとしている。
そういう大人たちの所に、
たかが中二が世界は絶望的だ!なんて言っても、
鼻で笑われるのが落ちである。


中二病でないバッドエンドには、
強烈な皮肉がある。
このままだとこうなっちまうから、
さっさと世界を良くするべきだ、という主張だ。
「猿の惑星」なんてのはその典型かもね。
(猿は、アジア人の象徴。
作者は太平洋戦争で日本人の捕虜になった経験を流用。
本当は日本人は、猿とはなんだ!と怒らなきゃいけないんだが、
映画の出来の良さにどうでもよくなるよね)

あるいは、主人公が悪で、
最後に滅びるタイプのものは、
形上はバッドエンドだけど、意味としてはハッピーエンドだね。


さて、
ハッピーエンドを僕は書くべきだと思っている。
世界は希望に満ちている訳ではないことを知っていて、
世界は絶望的だと発見したあとに、
それでも世界に希望はあるべきだと思って頑張る大人を知った上での、
世界を良く変える方法について、
書くべきだと思っている。

それは、中二病的全能感からすると、
一気に世界がドミノ倒しに変えるような、
スゴイ発明を想像するけど、
現実には、
ちょっとだけ気持ちが軽くなるとか、
これを使えば100の困難のうち1が楽になるとか、
そのレベルでコツコツと世界を変えていくのだよ。

ipod並の発明ならばスゴイけど、
実際の発明は、イヤホンの形状向上とかのレベルだぜ。
そういうのをひとつひとつ積み上げて、
スゴイ発明に集積するんだぜ。


それを一足とびに、世界は絶望的だなんて言うやつは、
子供は早く寝なさいと言われるだけなのだ。


大人たちの世界は、過去の歴史すべてを踏まえた上で、
これから世界をどう良くしようかと考えているはずだ。
勿論、子供のままの、自分勝手なやつも多いけど。

僕は、映画という文学は、
ペシミズムにしてもしょうがないと思っている。
あまりにもバカなオプティミズム(アメリカ人や南国の人みたいな)も、
時には悪くないけど、
地に足のついた、絶望をどう希望に満ちさせるかを、
考えるべきだと思っている。

(この地に足のついた、という考え方自体が、
地の星座である乙女座の発想かも知れない。
風の星座の人は、そんなん適当やん、
と風任せの映画をつくるかも知れない)
posted by おおおかとしひこ at 12:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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