これまでをなんとなくまとめてみる。
脚本が上手いかどうかを判定するのは玄人の見方が必要だけど、
脚本が下手かどうかを判定するのは、中級者レベルで可能だ。
それは、
「三人称なのに一人称で書いている」
ことである。
三人称と一人称の混同こそが、
根本の原因なのではないかな。
客観性が持てない。
これほんとに面白いと思ってんの?
主人公が魅力的じゃない。
主人公がぐずぐずして何もしない。
主人公が悩んでばかり。
そんなどうでもいい主人公が、何故か周りに構われる。(普通なら無視)
主人公がラストのクライマックスにいきなり覚醒して大活躍。
そういう特徴を持つ話は、
メアリースー型とも言ったし、
「落下する夕方」テンプレだとも言った。
それは、三人称、すなわち他人を主人公にするべき映画に、
一人称を混ぜこんでしまったことによる、悲劇なのである。
一人称では、
主人公は自分である。
あるいは自分を反映した架空の人だ。
架空だろうがなんだろうが自分だ。
こういうとき、表現が鍛えられていない未熟な人間は、
自分のことを語る。
語ることが自分しかないからである。
よほど魅力的な自分語りなら商品化可能だ。
芸能人暴露本とか、偉大な人の自伝とか、
すごい事故を生き残った人の話とかね。
で、99%以上のそこに当てはまらない人の自分語りなんて、
詰まらないのである。
親しい人に話すのとは訳が違う。
マス芸術は、日本人全員に話すのである。
日本人全員が面白くなければ、面白くないのである。
大抵の初心者は、
そこまで面白くない。
だから自分語りも面白くない。
合コンで退屈される類いのレベルだ。
大抵の作家志望は、
コミュ障気味で自閉症気味だ。
積極的に人と関わったり、人を変えていったりする経験が乏しい。
だから、
自分語りをするときにその部分ばかり書いてしまう。
一人称小説なら地の文で解説できるが、
脚本ではそうはいかない。
頭の中で考えていることは写すことが出来ず、
「苦悩する主人公」ばかり書く。
結果は、「何もしないそのへんの人」にしか見えていないのにだ。
で、それだけじゃ、
自分が平凡であることを認められないから、
「最強の自分」を書きたがる。
俺ツエーの瞬間だ。
自閉症でコミュ障だから、実際の最強のことはよく知らず、
頭で夢想したリアリティーのない俺ツエーの場面である。
童貞にエアセックスをさせてみる。
「女をいかせるまでを実演してくれたまえ」とふると、
そこに演じられるのは、思い込みの極致である。
これと同じだ。
リアリティーのない格好をつけたがるのである。
一人称文学においては、
これを粉飾可能だ。
地の文の描写においてだ。
しかし三人称においては、その粉飾は使えない。
ごまかしのきかないステージの上に放り出され、
何かをしなければならない。
衆人環視でだ。
ここで、放り出された人が自分だと思うから、間違うのだ。
大したことのない自分だから、
ステージの上で童貞のエアセックスをしてしまい、
自分だけ悦に入って、観客からは大爆笑(または無視)されるのである。
ステージの上に放り出された人は、他人だ。
その他人が何かの芸をする。
それを「観客席で」楽しむのが三人称形式である。
あなたはステージの上の人の中にいるのではない。
ステージの上ではなく、観客席にいるのである。
観客席にいながらにして、ステージに指示を出すのである。
演者ではなく監督なのだ。
監督は、人形遊びをするとき、
誰かに人形を操らせる。
人形を操らない。
人形を操る人に、シチュエーションを与えるのである。
そして人形のリアクションを記録して、
物語を紡いでいくのだ。
(一人で書く場合、人形を操る人の役もする。
それよりも監督としての目線が大事だ)
てんぐ探偵を読んでいる人ならば、
これは52話「流れ星」倫チャンの話だと思い出すかも知れない。
脚本が下手な人は、
そもそもの視点が間違っているのだ。
間違った場所でどれだけ頑張っても、
トンチンカンなものしか書けないよ。
みんな観客席で闘ってるのに、
あなた一人だけステージに素っ裸で上がってるのですもの。
一人称と三人称を混同してはいけない。
話はそれからだ。
2015年08月18日
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