2015年08月18日

下手な脚本の定義

これまでをなんとなくまとめてみる。

脚本が上手いかどうかを判定するのは玄人の見方が必要だけど、
脚本が下手かどうかを判定するのは、中級者レベルで可能だ。

それは、
「三人称なのに一人称で書いている」
ことである。

三人称と一人称の混同こそが、
根本の原因なのではないかな。



客観性が持てない。
これほんとに面白いと思ってんの?
主人公が魅力的じゃない。
主人公がぐずぐずして何もしない。
主人公が悩んでばかり。
そんなどうでもいい主人公が、何故か周りに構われる。(普通なら無視)
主人公がラストのクライマックスにいきなり覚醒して大活躍。

そういう特徴を持つ話は、
メアリースー型とも言ったし、
「落下する夕方」テンプレだとも言った。

それは、三人称、すなわち他人を主人公にするべき映画に、
一人称を混ぜこんでしまったことによる、悲劇なのである。

一人称では、
主人公は自分である。
あるいは自分を反映した架空の人だ。
架空だろうがなんだろうが自分だ。

こういうとき、表現が鍛えられていない未熟な人間は、
自分のことを語る。
語ることが自分しかないからである。

よほど魅力的な自分語りなら商品化可能だ。
芸能人暴露本とか、偉大な人の自伝とか、
すごい事故を生き残った人の話とかね。

で、99%以上のそこに当てはまらない人の自分語りなんて、
詰まらないのである。

親しい人に話すのとは訳が違う。
マス芸術は、日本人全員に話すのである。
日本人全員が面白くなければ、面白くないのである。

大抵の初心者は、
そこまで面白くない。
だから自分語りも面白くない。
合コンで退屈される類いのレベルだ。

大抵の作家志望は、
コミュ障気味で自閉症気味だ。
積極的に人と関わったり、人を変えていったりする経験が乏しい。
だから、
自分語りをするときにその部分ばかり書いてしまう。
一人称小説なら地の文で解説できるが、
脚本ではそうはいかない。
頭の中で考えていることは写すことが出来ず、
「苦悩する主人公」ばかり書く。
結果は、「何もしないそのへんの人」にしか見えていないのにだ。

で、それだけじゃ、
自分が平凡であることを認められないから、
「最強の自分」を書きたがる。
俺ツエーの瞬間だ。
自閉症でコミュ障だから、実際の最強のことはよく知らず、
頭で夢想したリアリティーのない俺ツエーの場面である。
童貞にエアセックスをさせてみる。
「女をいかせるまでを実演してくれたまえ」とふると、
そこに演じられるのは、思い込みの極致である。
これと同じだ。
リアリティーのない格好をつけたがるのである。


一人称文学においては、
これを粉飾可能だ。
地の文の描写においてだ。

しかし三人称においては、その粉飾は使えない。
ごまかしのきかないステージの上に放り出され、
何かをしなければならない。
衆人環視でだ。

ここで、放り出された人が自分だと思うから、間違うのだ。
大したことのない自分だから、
ステージの上で童貞のエアセックスをしてしまい、
自分だけ悦に入って、観客からは大爆笑(または無視)されるのである。

ステージの上に放り出された人は、他人だ。
その他人が何かの芸をする。
それを「観客席で」楽しむのが三人称形式である。

あなたはステージの上の人の中にいるのではない。
ステージの上ではなく、観客席にいるのである。
観客席にいながらにして、ステージに指示を出すのである。

演者ではなく監督なのだ。


監督は、人形遊びをするとき、
誰かに人形を操らせる。
人形を操らない。
人形を操る人に、シチュエーションを与えるのである。
そして人形のリアクションを記録して、
物語を紡いでいくのだ。
(一人で書く場合、人形を操る人の役もする。
それよりも監督としての目線が大事だ)

てんぐ探偵を読んでいる人ならば、
これは52話「流れ星」倫チャンの話だと思い出すかも知れない。



脚本が下手な人は、
そもそもの視点が間違っているのだ。

間違った場所でどれだけ頑張っても、
トンチンカンなものしか書けないよ。
みんな観客席で闘ってるのに、
あなた一人だけステージに素っ裸で上がってるのですもの。


一人称と三人称を混同してはいけない。
話はそれからだ。
posted by おおおかとしひこ at 13:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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