2015年08月20日

面白さに法則はあるか?

あるとも言えるしないとも言える。

面白さとは全く新しいものを作ることだ、
という立場に立てば、従来の法則に当てはまらないものを作るべきだ。
しかし、
ノールールで作って面白いものが出来る訳がないから、
一定の面白さを生み出す法則があるような気もする。


実は、
そういう法則は、それぞれが各自で作らなくてはならない。

自分なりに、
こういうことが面白いのだ、という法則を見いだし、
自己流を編み出すべきなのである。

そのバリエーションが少なければ、
この人はいつも同じことをやってるなあと思われる。
それが唯一無二であれば、
その一つで一生食えるかも知れない。
我らが車田御大は、そのタイプの作家である。
しかし同じものをやり続けると、硬直した作家と思われることだろう。
そのへんは老舗のポジショニングに似てる。

自分なりの法則をどれぐらい持っているか。
広さと深さにおいて、
どんな法則を編み出してきたか。

僕は持ち技などと言うけれど、
それは、個々の具体ではなく、抽象化されたものだろう。


法則性を見いだすには、
抽象化するといい。

具体的なガワでなく、
どんなガワが来ても成立するような、
抽象化されたものを抽出しておくとよい。
別の具体を当てはめれば、オリジナルの面白さになるからだ。


「死んだと思ったら生きていた」は、
よくある面白い場面のテンプレだ。
どう死んだと思わせるか、
どう生きていたと分からせるかの具体は、自分で考えればいい。

こういう自分なりのテンプレを持っていると、
困ったときに使える。

それを、それぞれの自己流で編み出すのである。
むしろ、その技の体系こそが、
あなたの作家性なのである。


新しい法則を見いだすのか。
これまでの過去の法則を抽出するのか。
ある程度過去を学べば、抽象化は可能である。

ブレイクシュナイダーも、自著の中でいくつかの法則を紹介してくれている。


俺の技はなんだろうね。
やっぱり昔のジャンプとか、
好きな映画の中から持ってきがちなのかもなあ。


CMにはいくつか法則がある。
そして尺のせいか、法則のバリエーションがそんなにない。
新しい法則も生み出されていないので、
僕はCMにあんまり興味がなくなってしまった。


過去の名作の勉強は、
法則を抽出して研究するにはとてもいい。
個人的には、ビリーワイルダー映画が大変勉強になった。

法則を知っているからといって、
使いこなしているかどうかがまた別なのは、
武術の技と同じだ。
道場で一応習うけど、
無意識に出て決まるのは、やっぱりわずかな数だよね。

武術の修行と同じで、
色々な流派を勉強するのはとてもよい。
自分の中に技があるときはね。
ひとつも技を使えないのなら、混乱するだけだけど。
ある程度技を使えるようになって、はじめて武者修行がいいのかもだ。


あ、俺の得意技思い出した。
「同じ決め台詞を、別の文脈で使う」かな。

「いけちゃんとぼく」でもやったなあ。
「力で心が変えられるもんか」だね。
最初は個人的反抗だったけど、
二回目は自分のコミュニティを守るための台詞だった。
それが大人になったことを象徴してるんだけど。

風魔では、「暖かい風」というのを最終回に使った。

どうもテーマを言わんとするときの、
僕の得意技かも知れない。
ご多聞に漏れず、てんぐ探偵最終回(もうすぐ発表)でもやってたわ(笑)
(最終回以外でも多分やってると思う)


こういう法則はパクってもOKだ。
使いこなせるのなら。
パクったって使えるまで修練がいるし、
その修練そのものがあなただから。

ガワをパクるから佐野になるのだ。
(どうでもいいけど、佐野さんは僕の初恋の人の名字だから汚さないで欲しい)



人の法則を研究しよう。
そして自分の法則を開発しよう。
それが才能だ。
posted by おおおかとしひこ at 01:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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