あるとも言えるしないとも言える。
面白さとは全く新しいものを作ることだ、
という立場に立てば、従来の法則に当てはまらないものを作るべきだ。
しかし、
ノールールで作って面白いものが出来る訳がないから、
一定の面白さを生み出す法則があるような気もする。
実は、
そういう法則は、それぞれが各自で作らなくてはならない。
自分なりに、
こういうことが面白いのだ、という法則を見いだし、
自己流を編み出すべきなのである。
そのバリエーションが少なければ、
この人はいつも同じことをやってるなあと思われる。
それが唯一無二であれば、
その一つで一生食えるかも知れない。
我らが車田御大は、そのタイプの作家である。
しかし同じものをやり続けると、硬直した作家と思われることだろう。
そのへんは老舗のポジショニングに似てる。
自分なりの法則をどれぐらい持っているか。
広さと深さにおいて、
どんな法則を編み出してきたか。
僕は持ち技などと言うけれど、
それは、個々の具体ではなく、抽象化されたものだろう。
法則性を見いだすには、
抽象化するといい。
具体的なガワでなく、
どんなガワが来ても成立するような、
抽象化されたものを抽出しておくとよい。
別の具体を当てはめれば、オリジナルの面白さになるからだ。
「死んだと思ったら生きていた」は、
よくある面白い場面のテンプレだ。
どう死んだと思わせるか、
どう生きていたと分からせるかの具体は、自分で考えればいい。
こういう自分なりのテンプレを持っていると、
困ったときに使える。
それを、それぞれの自己流で編み出すのである。
むしろ、その技の体系こそが、
あなたの作家性なのである。
新しい法則を見いだすのか。
これまでの過去の法則を抽出するのか。
ある程度過去を学べば、抽象化は可能である。
ブレイクシュナイダーも、自著の中でいくつかの法則を紹介してくれている。
俺の技はなんだろうね。
やっぱり昔のジャンプとか、
好きな映画の中から持ってきがちなのかもなあ。
CMにはいくつか法則がある。
そして尺のせいか、法則のバリエーションがそんなにない。
新しい法則も生み出されていないので、
僕はCMにあんまり興味がなくなってしまった。
過去の名作の勉強は、
法則を抽出して研究するにはとてもいい。
個人的には、ビリーワイルダー映画が大変勉強になった。
法則を知っているからといって、
使いこなしているかどうかがまた別なのは、
武術の技と同じだ。
道場で一応習うけど、
無意識に出て決まるのは、やっぱりわずかな数だよね。
武術の修行と同じで、
色々な流派を勉強するのはとてもよい。
自分の中に技があるときはね。
ひとつも技を使えないのなら、混乱するだけだけど。
ある程度技を使えるようになって、はじめて武者修行がいいのかもだ。
あ、俺の得意技思い出した。
「同じ決め台詞を、別の文脈で使う」かな。
「いけちゃんとぼく」でもやったなあ。
「力で心が変えられるもんか」だね。
最初は個人的反抗だったけど、
二回目は自分のコミュニティを守るための台詞だった。
それが大人になったことを象徴してるんだけど。
風魔では、「暖かい風」というのを最終回に使った。
どうもテーマを言わんとするときの、
僕の得意技かも知れない。
ご多聞に漏れず、てんぐ探偵最終回(もうすぐ発表)でもやってたわ(笑)
(最終回以外でも多分やってると思う)
こういう法則はパクってもOKだ。
使いこなせるのなら。
パクったって使えるまで修練がいるし、
その修練そのものがあなただから。
ガワをパクるから佐野になるのだ。
(どうでもいいけど、佐野さんは僕の初恋の人の名字だから汚さないで欲しい)
人の法則を研究しよう。
そして自分の法則を開発しよう。
それが才能だ。
2015年08月20日
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