落ちが決まったときだと思う。
冒頭を思いついた、
展開を思いついた、は、話が出来たことにはならない。
ラストの大落ちを思いついたときが、
話が出来たときだ。
逆に、落ちだけ思いついた時でも、
既に話が出来ていると見なせる。
何故なら、それに合わせて冒頭をつくり、
(大抵落ちの逆からスタートさせればいい)
間にひねりを入れればいいからである。
もう、落ちだけを考えよう。
こういう感じの落ち、と妄想しよう。
名作の落ちだけを集めて研究しよう。
古典的落ちや現代的落ちについても研究しよう。
新しい落ちのあり方を模索しよう。
よくある落ちでも自分なりに書けるようにしよう。
いやあ、いい落ちだった。
いいラストだった。
終わりよければ全てよし。
落ちこそ全て。
「冒頭や展開は思いつくのだが落ちが思いつかない」のは、
まだ一本も話を思いついていないのと、同義である。
何度も書いているが、
物語とは落ちからの逆算で作る。
頭から考えて、順に落ちまで作る、と考えるのは素人である。
玄人は落ち先行で作る。
(より実戦的には、問題と解決を考え、
面白そうな落ちが出来たら、
これは行けると踏んで、ちゃんと作り始める)
だから作り手の時系列は、いったり来たりする。
決して観客のように、
頭から最後まで随伴しない。
いい落ちが出来た?
じゃ一本書けるぜ。
2015年08月21日
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