2015年08月21日

話が出来たときは、どういうときか

落ちが決まったときだと思う。


冒頭を思いついた、
展開を思いついた、は、話が出来たことにはならない。

ラストの大落ちを思いついたときが、
話が出来たときだ。

逆に、落ちだけ思いついた時でも、
既に話が出来ていると見なせる。

何故なら、それに合わせて冒頭をつくり、
(大抵落ちの逆からスタートさせればいい)
間にひねりを入れればいいからである。


もう、落ちだけを考えよう。
こういう感じの落ち、と妄想しよう。

名作の落ちだけを集めて研究しよう。

古典的落ちや現代的落ちについても研究しよう。

新しい落ちのあり方を模索しよう。
よくある落ちでも自分なりに書けるようにしよう。


いやあ、いい落ちだった。
いいラストだった。
終わりよければ全てよし。
落ちこそ全て。

「冒頭や展開は思いつくのだが落ちが思いつかない」のは、
まだ一本も話を思いついていないのと、同義である。


何度も書いているが、
物語とは落ちからの逆算で作る。
頭から考えて、順に落ちまで作る、と考えるのは素人である。
玄人は落ち先行で作る。
(より実戦的には、問題と解決を考え、
面白そうな落ちが出来たら、
これは行けると踏んで、ちゃんと作り始める)

だから作り手の時系列は、いったり来たりする。
決して観客のように、
頭から最後まで随伴しない。


いい落ちが出来た?
じゃ一本書けるぜ。
posted by おおおかとしひこ at 12:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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