落ちに必要なことは何だろう。
単に最初に起こったことが全部終わっただけでは、
ダメである。
こういうことがあって、最終的にこうなりました。
と関東人が言っても、関西人は納得しない。
「落ちは?」と聞く。
関西人の方が落ちに厳しい。
落ちとは何か。
それは、「その話になんの意味があったか」ということだ。
最後に面白いことで爆笑することだけが落ちではない。
落ちとは、
それまで話してきたことが、こういう意味だったのだ、
と腑に落ちる瞬間のことである。
分かりやすいのは教訓。
こういうことだから、次はこうしよう、
あるいはこういう失敗をしないようにしよう、
という記憶のされ方は、最もよくある。
真実を訴えることは、
ルポやドキュメントにもよくある。
一見こう思いがちなのだが、それは偏見や思い込みに過ぎず、
本当のところはこうなのである、
なるほどこれは誤解しやすいから気をつけなければならない、
などだ。
人間とはこういうものかも知れない、という観察、
本質に迫ったこと、
はその部分集合だ。
恐らく、創作物語の殆どは、これだろう。
爆笑で落とせば、関西人の期待する落ちだけど、
爆笑で落とさなくともよい。
たとえば落語「まんじゅうこわい」の落ち、
「今度はお茶がこわい」は、
皮肉でもある。
人間というのは、機転を利かせて自分の欲望をどこまでも遠そうとする、
醜い生き物である、
ということを言っているに等しい。
だから、笑いが起こるのだ。
なるほどね、と笑い、
上手いこと纏めたね、と拍手が起こるのである。
人間とは○○なものである、
というもののうち、
特に恐ろしい部分にスポットを当てたものを、
ホラーとかスリラーというジャンルで呼ぶ。
特に愛情にまつわる愛や裏切りの部分にスポットを当てたものを、
ラブストーリーなどのジャンルで呼ぶ。
ジャンルはモチーフの分類でもあるけれど、
落ちのジャンルでもある。
どんでん返しが人気なのは、
一見人間とはこういうものだ、と、誤解しがちだが、
真実はこういうものなのだ、
という文章通りに落ちが出来るからである。
ミスリードする前半戦は、否定する落ちへ向かうようにしておいて、
どんでん返した後半戦に、真実の落ちへ導く。
ストーリー上のどんでん返しではなく、
話の結論がどんでん返しするから、
面白いのである。
(逆に、結論がどんでん返ししないものは、
単なるギミックでしかない)
人間とはこういうものだ、
という結論は、
今まで聞いたことあるものでもよいし、
全く聞いたことのないものでもいい。
僕は、何かしら「発見」があったほうがいい、と考えている。
そうだ、考えたこともなかったが、
言われてみれば、人間とはそういうものかもしれないぞ、
と思うことが理想だと思っている。
あるいは、人間というのは悲しいけれどそういう生き物だなあ、
という再確認もいい。
ただの、聞いたことあることを言うのではなく、
聞いたことあることでも、
どうしてもそうしてしまう生き物なのだ、という観察はとても面白い。
(たとえば、人間が必ず権力を求め、別の人間に引きずり下ろされる様。
夏草やつはものどもが夢のあと、なんて感じ)
関西人の好む落ちは、
それが「おかしいこと」である。
ポジティブな笑いでもいいし、哀しみを含む笑いでもいい。
とくに後者は大阪ブルースと呼ばれ、
なんで人間はこんな哀しくて滑稽なんやろねえ、
と嘆きながら笑いに包む、高度なジャンルだ。
関西人が関東人に「落ちは?」と聞くとき、
実は笑いなど求めていない。
「その話になんの意味があったかを、まとめよ」
と要求しているのである。
逆に、関西人は、最後にひと笑いするように、
話をまとめる習慣がある。
その感覚が、僕は関東人に希薄だと思っている。
「落ちは?」と聞かれたら、
その話をまとめていない、ということだ。
短くまとめればいいだけのことだ。
「人間とはそういうものかもしれないぞ」と一行にまとめるといい。
なるほど、そういうことやったのか、深いな、
と皆は思うはずだ。
さて、物語の落ちは、
このように結論を直接言ってしまう場合もある。
ナレーターが纏めるタイプだ。
しかし、映画はそうではない。
ナレーターが纏めるタイプで落とすこともあるが、
なるべくそうでなく、
三人称芝居で落ちを作りたいものだ。
とすると、「この話になんの意味があったのか」を、
直接言わず、間接的に言うのが粋である。
分かりやすいのはキス終わり。
ハッピーエンドであり、愛情は素晴らしいという意味、
ラブストーリー賛歌を意味して終われる。
人間は愛がなくては生きていけない、というひとつの真実を訴えるのである。
訴えるほどでもなくて、みんな知ってることだけど。
さあ、ここに、脚本家の腕がいるのだ。
小説なら地の文、落語や二人称会話ならば話者の語りによって、
ナレーション出来る。
「人間というのは、○○な生き物である、というお話でした」
と一言で纏めてしまえばいい。
それを使わずして、
誰かが誰かに言う台詞、または動作で、
締めなくてはならないのである。
それでお話が落ちたように作るのが、三人称表現での落ちである。
(思いつかなければ、最悪ナレーション、
大抵はナレーターという第三者ではなく、
主人公のボイスオーバーだが、
で纏める手に逃げてもよい)
エンディングをだらだらさせるのは、悪手である。
何故なら、落ちがすとんと落ちないからだ。
この話がなんの意味があったのか、
を一言で言えないことと同じだからだ。
エンディングは後日談ではない。
後日談を描きながら、
この話になんの意味があったのか、を描くことが目的だ。
容易に考えられるのは、ブックエンドテクニックだ。
オープニングと同じ場面にしておいて、
以前できなかったことが出来るようになっていて、
その事がこの話が一番大切にしていることですよ、
と暗示して終えられる。
ナレーション、ブックエンドテクニックは、
比較的初心者でも落ちを作れるだろう。
困ったら、そうやって落とすといい。
人間というのは、こういうものだ、
それを言わんが為にこの話をしてきたのだ、と、
これまでの話を纏めるとよい。
たとえばガンダムのエンディング。
ニュータイプに子供たちが目覚めたことで、
アムロを助ける。
僕には帰れるところがあるんだ、とアムロは孤独から救われる。
このことで、
「人は新しい繋がりかたで、革新しうる」ということを言おうとしている。
ゼータガンダム以降の続編には、
このような落ちがない。これに匹敵する素晴らしい落ちがない。
だからファースト以外は認めない。
実際のところ、
79年当時に予測された、エスパー的な能力で革新的に繋がるのではなく、
21世紀の我々は、ネット技術で繋がり、集合知を得たかのように錯覚しているが、
これもニュータイプなのかねえ。
人間というのはこういうものだ、
ということを、皮肉で揶揄することもある。
ブラックユーモアか、バッドエンドが多い。
で、結論は?
その話になんの意味があったのか?
それを短い言葉(最悪でもこれ)、
またはシーン(理想はこっち)で纏めるのが、
落ちだ。
関西人の好みは笑い成分あり。
必ずしもそれは必要ではない。
笑いでなくても、深いことや、腹にゴツッと来るようなことでもいい。
強烈な皮肉でもいい。
江戸っ子は、そこに粋な成分が混じっているのが好きかも知れない。
それが落ちだ。
2015年08月22日
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