2015年08月22日

落ちとは、意味が確定すること

落ちに必要なことは何だろう。
単に最初に起こったことが全部終わっただけでは、
ダメである。

こういうことがあって、最終的にこうなりました。
と関東人が言っても、関西人は納得しない。
「落ちは?」と聞く。
関西人の方が落ちに厳しい。

落ちとは何か。
それは、「その話になんの意味があったか」ということだ。


最後に面白いことで爆笑することだけが落ちではない。

落ちとは、
それまで話してきたことが、こういう意味だったのだ、
と腑に落ちる瞬間のことである。


分かりやすいのは教訓。
こういうことだから、次はこうしよう、
あるいはこういう失敗をしないようにしよう、
という記憶のされ方は、最もよくある。

真実を訴えることは、
ルポやドキュメントにもよくある。
一見こう思いがちなのだが、それは偏見や思い込みに過ぎず、
本当のところはこうなのである、
なるほどこれは誤解しやすいから気をつけなければならない、
などだ。

人間とはこういうものかも知れない、という観察、
本質に迫ったこと、
はその部分集合だ。
恐らく、創作物語の殆どは、これだろう。
爆笑で落とせば、関西人の期待する落ちだけど、
爆笑で落とさなくともよい。

たとえば落語「まんじゅうこわい」の落ち、
「今度はお茶がこわい」は、
皮肉でもある。
人間というのは、機転を利かせて自分の欲望をどこまでも遠そうとする、
醜い生き物である、
ということを言っているに等しい。
だから、笑いが起こるのだ。
なるほどね、と笑い、
上手いこと纏めたね、と拍手が起こるのである。


人間とは○○なものである、
というもののうち、
特に恐ろしい部分にスポットを当てたものを、
ホラーとかスリラーというジャンルで呼ぶ。
特に愛情にまつわる愛や裏切りの部分にスポットを当てたものを、
ラブストーリーなどのジャンルで呼ぶ。

ジャンルはモチーフの分類でもあるけれど、
落ちのジャンルでもある。


どんでん返しが人気なのは、
一見人間とはこういうものだ、と、誤解しがちだが、
真実はこういうものなのだ、
という文章通りに落ちが出来るからである。
ミスリードする前半戦は、否定する落ちへ向かうようにしておいて、
どんでん返した後半戦に、真実の落ちへ導く。
ストーリー上のどんでん返しではなく、
話の結論がどんでん返しするから、
面白いのである。
(逆に、結論がどんでん返ししないものは、
単なるギミックでしかない)


人間とはこういうものだ、
という結論は、
今まで聞いたことあるものでもよいし、
全く聞いたことのないものでもいい。

僕は、何かしら「発見」があったほうがいい、と考えている。
そうだ、考えたこともなかったが、
言われてみれば、人間とはそういうものかもしれないぞ、
と思うことが理想だと思っている。

あるいは、人間というのは悲しいけれどそういう生き物だなあ、
という再確認もいい。
ただの、聞いたことあることを言うのではなく、
聞いたことあることでも、
どうしてもそうしてしまう生き物なのだ、という観察はとても面白い。
(たとえば、人間が必ず権力を求め、別の人間に引きずり下ろされる様。
夏草やつはものどもが夢のあと、なんて感じ)


関西人の好む落ちは、
それが「おかしいこと」である。
ポジティブな笑いでもいいし、哀しみを含む笑いでもいい。
とくに後者は大阪ブルースと呼ばれ、
なんで人間はこんな哀しくて滑稽なんやろねえ、
と嘆きながら笑いに包む、高度なジャンルだ。

関西人が関東人に「落ちは?」と聞くとき、
実は笑いなど求めていない。
「その話になんの意味があったかを、まとめよ」
と要求しているのである。

逆に、関西人は、最後にひと笑いするように、
話をまとめる習慣がある。
その感覚が、僕は関東人に希薄だと思っている。

「落ちは?」と聞かれたら、
その話をまとめていない、ということだ。
短くまとめればいいだけのことだ。
「人間とはそういうものかもしれないぞ」と一行にまとめるといい。
なるほど、そういうことやったのか、深いな、
と皆は思うはずだ。




さて、物語の落ちは、
このように結論を直接言ってしまう場合もある。
ナレーターが纏めるタイプだ。

しかし、映画はそうではない。
ナレーターが纏めるタイプで落とすこともあるが、
なるべくそうでなく、
三人称芝居で落ちを作りたいものだ。
とすると、「この話になんの意味があったのか」を、
直接言わず、間接的に言うのが粋である。

分かりやすいのはキス終わり。
ハッピーエンドであり、愛情は素晴らしいという意味、
ラブストーリー賛歌を意味して終われる。
人間は愛がなくては生きていけない、というひとつの真実を訴えるのである。
訴えるほどでもなくて、みんな知ってることだけど。

さあ、ここに、脚本家の腕がいるのだ。


小説なら地の文、落語や二人称会話ならば話者の語りによって、
ナレーション出来る。
「人間というのは、○○な生き物である、というお話でした」
と一言で纏めてしまえばいい。

それを使わずして、
誰かが誰かに言う台詞、または動作で、
締めなくてはならないのである。
それでお話が落ちたように作るのが、三人称表現での落ちである。

(思いつかなければ、最悪ナレーション、
大抵はナレーターという第三者ではなく、
主人公のボイスオーバーだが、
で纏める手に逃げてもよい)


エンディングをだらだらさせるのは、悪手である。
何故なら、落ちがすとんと落ちないからだ。
この話がなんの意味があったのか、
を一言で言えないことと同じだからだ。

エンディングは後日談ではない。

後日談を描きながら、
この話になんの意味があったのか、を描くことが目的だ。

容易に考えられるのは、ブックエンドテクニックだ。
オープニングと同じ場面にしておいて、
以前できなかったことが出来るようになっていて、
その事がこの話が一番大切にしていることですよ、
と暗示して終えられる。

ナレーション、ブックエンドテクニックは、
比較的初心者でも落ちを作れるだろう。
困ったら、そうやって落とすといい。

人間というのは、こういうものだ、
それを言わんが為にこの話をしてきたのだ、と、
これまでの話を纏めるとよい。

たとえばガンダムのエンディング。
ニュータイプに子供たちが目覚めたことで、
アムロを助ける。
僕には帰れるところがあるんだ、とアムロは孤独から救われる。
このことで、
「人は新しい繋がりかたで、革新しうる」ということを言おうとしている。

ゼータガンダム以降の続編には、
このような落ちがない。これに匹敵する素晴らしい落ちがない。
だからファースト以外は認めない。

実際のところ、
79年当時に予測された、エスパー的な能力で革新的に繋がるのではなく、
21世紀の我々は、ネット技術で繋がり、集合知を得たかのように錯覚しているが、
これもニュータイプなのかねえ。



人間というのはこういうものだ、
ということを、皮肉で揶揄することもある。
ブラックユーモアか、バッドエンドが多い。




で、結論は?

その話になんの意味があったのか?

それを短い言葉(最悪でもこれ)、
またはシーン(理想はこっち)で纏めるのが、
落ちだ。

関西人の好みは笑い成分あり。
必ずしもそれは必要ではない。
笑いでなくても、深いことや、腹にゴツッと来るようなことでもいい。
強烈な皮肉でもいい。

江戸っ子は、そこに粋な成分が混じっているのが好きかも知れない。

それが落ちだ。
posted by おおおかとしひこ at 10:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック