人は、必然性のないものは信用しない。
あるいは、感情で納得していても、
必然性という理屈がつかないと、腑に落ちた感じがしない。
逆に、必然性さえあれば、多少強引でも納得するものだ。
それは、必然性がないことに比べれば、
天と地の開きがあるものである。
たとえば佐野デザインに欠けているものは、
この必然性である。
BIToロゴには、あのデザインにする必然性が感じられない。
元ネタのdotには、ドットというコンセプトを目立たせる為の黒丸強調と、
その強調の為その他を線で引き算している、
という必然性がある。
なぜ美術館と図書館が一体化した施設に、黒丸と線を使用するのか、
全く必然性が感じられない。
まだ筆と本をモチーフにデザインすれば必然性はあったろう。
オリンピックロゴが全くよくないのは、
スポーツの祭典とか、日本とか、東京とかの、
必然性が感じられないことだ。
Tモチーフにしては、謎の右下部分。
日の丸モチーフにしては、謎の右上配置。
そして理屈の通らない黒中心の配色。
なにもかもが、必然性が感じられないからこそ、皆がぽかーんとしているのである。
元ネタのリエージュ劇場は、頭文字のTとLを重ねたという、
明確な必然があるから、「理解」できる。
しかしオリンピックロゴは「理解」できない。
コンビニのおでんPOPのほうが、遥かに必然性がある。
ちくわ、大根、はんぺん、こんにゃくと、
人気具材でレイアウトした、という必然性があるぐらいだ。
それぐらい、佐野オリンピックロゴは、必然性がない。
人は、芸術を、「理解」しようとする。
理解せずにそのまま放置することはない。
好きな人が現れたら、その人の全てを知りたいし、
分からないところは理解したい。
そういう生き物である。
あるいは、分かったときに好きになる。
嫌いな教科が、分かりはじめたら面白くなってくる瞬間は、経験があるかも知れない。
(僕は理系で日本史嫌いだったが、この歳にして、
ようやく面白さが分かってきた)
謎が分かってきた途中のパズルは面白い。
嫌な人だと思っていたら実はいい人だったと分かったときの、
我々の心の動きは、「その人を理解したこと」に起因する。
(それまでは誤解だったんだ、と理解する)
逆に、理解できないものは、好きになれない。
抽象絵画を「理解」している人はいない。
「世の中には訳の分からないものがあるのだ」という、
高度な理解の仕方でしか、抽象絵画は理解できない。
(実際のところ、抽象絵画を理解することは極めて簡単で、
色の組み合わせとか形の面白さみたいな、
創作積み木を描いているだけなんだけどね)
数学が多くの人に嫌われているのは、理解できないからだ。
これをやる必然性が分からない、なんてみんなしょっちゅう言うよね。
理系からしたら、ひとつずつ指摘してあげてもいいくらいだ。
これが何に使われているか、必然性を説明してやるぜ。
(たとえば虚数は何のためにあるのか?
数の次元を上げるためにあるのだ。実際、四次元時空を現すための、
相対性理論のアインシュタインの方程式は、虚数を含む方程式で記述されるよ。
つまり、宇宙の次元を理解するために虚数が必要なのさ。
制御理論にも応用されてる。他にも虚数の必然性は沢山あるよ)
さて、必然性だ。
我々は、分からないものを、分かった、と思う瞬間、
「理解」が起こる。
全てのものが、その理解に必要なパーツであったとき、
全てに必然性があり、
ひとつのものに繋がった、
という納得が起こる。
それが理想の落ちである。
佐野デザインには必然性がない。
パクり元には必然性がある。
だから佐野デザインは浮いているし、落ちもない。
落ちがないもののジャンルを、シュールという。
シュールは、必然性で凝り固まった創作を、
批判するために存在する。
世の中必然性とか精密な理屈ばかりじゃないよね?
とひと刺しする為にある。
勿論、佐野デザインは、そんな高度なことをしていない。
あなたの芸術、つまり脚本は、
どういう「理解」で、人々の腑に落ちるのだろうか。
それはどんな意味のあることで、
どういう必然性があった、と認められるのだろうか。
あなたの中では計算があるのかも知れない。(ないのは論外!)
しかし、その計算が果たして通用するのだろうか。
それは、読んだ人と話すことでしか確認できない。
あなたの求めるワードが出なくても、
相手が理解しているかどうかは、話せば分かるものである。
これを伝えたかったのだが、と説明しても、
そんな話だとは思わなかった、と言われることも多々ある。
そうやって、我々は自分の計算の思い込みと、
現実のズレを修正していく。
自分のなかでの必然性と、世間での必然性を、
同じものになるように表現や目を鍛えていく。
(同時に個性を失ってはならない。彼我の差を認識するのだ)
そういう目がない人は、プロになれない。
独りよがりと言われて捨てられる。
全ては必然性だ。
女の子を泊めるのだって、終電がなくなったから、という必然性と、
家で飼ってるハムスターを見に来る、という必然性が必要なのだ。
2015年08月23日
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