2015年08月23日

必然性

人は、必然性のないものは信用しない。
あるいは、感情で納得していても、
必然性という理屈がつかないと、腑に落ちた感じがしない。

逆に、必然性さえあれば、多少強引でも納得するものだ。

それは、必然性がないことに比べれば、
天と地の開きがあるものである。


たとえば佐野デザインに欠けているものは、
この必然性である。

BIToロゴには、あのデザインにする必然性が感じられない。
元ネタのdotには、ドットというコンセプトを目立たせる為の黒丸強調と、
その強調の為その他を線で引き算している、
という必然性がある。
なぜ美術館と図書館が一体化した施設に、黒丸と線を使用するのか、
全く必然性が感じられない。
まだ筆と本をモチーフにデザインすれば必然性はあったろう。

オリンピックロゴが全くよくないのは、
スポーツの祭典とか、日本とか、東京とかの、
必然性が感じられないことだ。

Tモチーフにしては、謎の右下部分。
日の丸モチーフにしては、謎の右上配置。
そして理屈の通らない黒中心の配色。
なにもかもが、必然性が感じられないからこそ、皆がぽかーんとしているのである。

元ネタのリエージュ劇場は、頭文字のTとLを重ねたという、
明確な必然があるから、「理解」できる。
しかしオリンピックロゴは「理解」できない。

コンビニのおでんPOPのほうが、遥かに必然性がある。
ちくわ、大根、はんぺん、こんにゃくと、
人気具材でレイアウトした、という必然性があるぐらいだ。

それぐらい、佐野オリンピックロゴは、必然性がない。



人は、芸術を、「理解」しようとする。
理解せずにそのまま放置することはない。

好きな人が現れたら、その人の全てを知りたいし、
分からないところは理解したい。
そういう生き物である。

あるいは、分かったときに好きになる。
嫌いな教科が、分かりはじめたら面白くなってくる瞬間は、経験があるかも知れない。
(僕は理系で日本史嫌いだったが、この歳にして、
ようやく面白さが分かってきた)
謎が分かってきた途中のパズルは面白い。
嫌な人だと思っていたら実はいい人だったと分かったときの、
我々の心の動きは、「その人を理解したこと」に起因する。
(それまでは誤解だったんだ、と理解する)

逆に、理解できないものは、好きになれない。
抽象絵画を「理解」している人はいない。
「世の中には訳の分からないものがあるのだ」という、
高度な理解の仕方でしか、抽象絵画は理解できない。
(実際のところ、抽象絵画を理解することは極めて簡単で、
色の組み合わせとか形の面白さみたいな、
創作積み木を描いているだけなんだけどね)

数学が多くの人に嫌われているのは、理解できないからだ。
これをやる必然性が分からない、なんてみんなしょっちゅう言うよね。
理系からしたら、ひとつずつ指摘してあげてもいいくらいだ。
これが何に使われているか、必然性を説明してやるぜ。
(たとえば虚数は何のためにあるのか?
数の次元を上げるためにあるのだ。実際、四次元時空を現すための、
相対性理論のアインシュタインの方程式は、虚数を含む方程式で記述されるよ。
つまり、宇宙の次元を理解するために虚数が必要なのさ。
制御理論にも応用されてる。他にも虚数の必然性は沢山あるよ)


さて、必然性だ。

我々は、分からないものを、分かった、と思う瞬間、
「理解」が起こる。
全てのものが、その理解に必要なパーツであったとき、
全てに必然性があり、
ひとつのものに繋がった、
という納得が起こる。

それが理想の落ちである。


佐野デザインには必然性がない。
パクり元には必然性がある。
だから佐野デザインは浮いているし、落ちもない。

落ちがないもののジャンルを、シュールという。
シュールは、必然性で凝り固まった創作を、
批判するために存在する。
世の中必然性とか精密な理屈ばかりじゃないよね?
とひと刺しする為にある。
勿論、佐野デザインは、そんな高度なことをしていない。


あなたの芸術、つまり脚本は、
どういう「理解」で、人々の腑に落ちるのだろうか。
それはどんな意味のあることで、
どういう必然性があった、と認められるのだろうか。

あなたの中では計算があるのかも知れない。(ないのは論外!)
しかし、その計算が果たして通用するのだろうか。
それは、読んだ人と話すことでしか確認できない。
あなたの求めるワードが出なくても、
相手が理解しているかどうかは、話せば分かるものである。
これを伝えたかったのだが、と説明しても、
そんな話だとは思わなかった、と言われることも多々ある。

そうやって、我々は自分の計算の思い込みと、
現実のズレを修正していく。
自分のなかでの必然性と、世間での必然性を、
同じものになるように表現や目を鍛えていく。
(同時に個性を失ってはならない。彼我の差を認識するのだ)
そういう目がない人は、プロになれない。
独りよがりと言われて捨てられる。


全ては必然性だ。
女の子を泊めるのだって、終電がなくなったから、という必然性と、
家で飼ってるハムスターを見に来る、という必然性が必要なのだ。
posted by おおおかとしひこ at 12:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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