2015年08月25日

ストーリーとは動きである(新)

物語とは、流れのことだ。
何かが動いて、ストーリーの流れがあり、
静止するのはちっとも面白くない(じっとしてばかり!)。

これをかつては外形から捉えて書いてみたが、
更に内奥に迫ってみようと思う。

ストーリーとは動きである。
我々観客のなかに、「運動の感覚を起こす」ものである。


簡単な例で、ダンスビデオを考えよう。
ノリのいい音楽や激しく面白い動きを見て、
我々は体を動かしたくなる。
しかし僕のようなダンス音痴は何をしていいか分からず、
モヤモヤするだけだ。

ダンス経験者で十分体が動く人ならば、
ダンスビデオを見ただけで、
体の中で「運動の再現」をするはずだ。
経験者であればあるほど、
このダンサーの体のキレは凄いとか、
こいつはたいしたことないとか、
体の中の運動の再現から判断できるだろう。

スポーツ経験者がそのスポーツを観戦するときも同じだ。
俺らみたいなオッサンが野球を応援するのと、
野球経験者がプロ野球を見るのは、まるで違う見方だ。
俺らは誰が何をやってるかとか、勝った負けたとか展開レベルだけど、
経験者は、あいつのあれは上手いとか、ここからなら間に合うはずだ、
などの、プレイヤー感覚で見ている。

それは視覚の判断ではなく、視覚から認識された、
「脳の中の動きの再現」としか言いようのない感覚で判断するだろう。


さて、映画である。

僕は、これと似たことが映画を見ている人の中で起こっていると考える。

つまり、映画の中の「動き」を、
自分の「動き」に置き換え、想像しているのだ。

アクション映画は分かりやすい。
カンフーやカーチェイスや銃撃戦での、
いろんな人の体の動きを、我々は頭の中で無意識に再現している。
その動きが興奮すればするほど、
アクションとして出来が良いと感じる。
マトリックスで見られたアクロバティックアクションは、
それが従来のアクションにはない、
新しい「動き」だと感じられたからこそ、
映像革命と言われたのだ。

ラブシーンも分かりやすい。
我々は、主人公とヒロインのラブラブな動きを、
頭の中で再現して楽しむ。
女子なら実際に触られている感覚を、
男子なら触っている感覚を、
頭の中で再現しているはずである。

映画は視覚だけで見るのではない。
視覚から形成された、「頭の中の何か」で感覚を得るのである。


これらがダンス経験者が見るダンスビデオと違うのは、
「それを経験したことがない人でも、
その動きの感覚が味わえるように作られている」ところだ。
ピアノ経験者がピアノシーンのリアリティーによく文句言うけど、
これはナンセンスだ。
「ピアノ経験者でなくとも、ピアノを弾いてるかのような、
動きの感覚が得られるかどうか」が肝心で、
これに達してないから非難されるべきなのである。

つまり、カーチェイスやカンフーやラブシーンは、
ある種の経験者はいるだろうけれど、
殆どは未経験者でも、その動きを頭の中に構築して楽しむことが出来るのが、
映画の楽しみの本質なのだ。


さて、カンフーやラブシーンだけが映画か?
それは派手で分かりやすい所で説明したに過ぎない。

ここからが本題だ。

映画が我々の頭の中に構築するのは、
「人生という動き」または、「事件発生から解決までの動き」
なのである。

物理的に動いてなくても、
たとえば結婚や就職や仕事のゲットや恋人と別れるのは、
それを経験する人の中で、
激動の感覚がある。

事件発生から解決まで、物理的に動いてなくても、
それは激動の感覚がある。

事態やフェイズが変わったり、環境が変わったりすることも、
付随して起きるだろうし、
なにより内面(感情、価値観、哲学)に変化があるだろう。

それらの、「変動、激動」の感覚を、
頭の中に起こすような感覚こそが、
「ストーリーとは動きである」の正体だ。


僕はいつも、ストーリーの流れって何だろうと、
言葉にとらえられない。
面白い話は流れがスムーズで、それに乗っていれば大変たのしい。
一方詰まらない話は流れが途切れがちで、停滞して、
乗りが悪い。流れらしい流れもない。
この差は、物理的な原稿ではなく、
「我々の中に、人生や事件という激動、変動の感覚が形成されるのか」
ということに関係するのではないだろうか。


その激動の感覚が、
主人公が物理的に動くこと(アクション)と関係するからこそ、
映画は面白く、感情移入するのではないか。
アクションのなかには、カンフーやラブシーンだけでなく、
人生の中でのアクション、
つまり、電話する、ドアをあける、肩を組む、
移動する、などを含んでいる。
棒立ちで何もしない主人公は、主人公ではない。
主人公は、目に見えるアクションで、
感情や考えを表現しなければならない。
我々観客は、彼が敵と肩を組むアクションを見ることで、
電撃的和解という激動の感覚が頭の中で出来上がるのである。


ストーリーとは動きである。
それは、表面上の動きと、
物語の内容の動きと、
我々の頭の中で再現している動きが、
全て連動することである。

それが出来ない下手な奴の書いた話は、
それがない。


どうやったら上達するかは分からない。
体の感覚を鍛えるなら、ダンスでもはじめてみてはどうか。
頭でっかちの、糞進撃みたいになる前に。
posted by おおおかとしひこ at 11:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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