説明部分はみんな嫌いだ。
説明部分なんかなくなっちまえ!
説明するのも面倒だし、一々説明部分を聞くのも面倒だ。
説明なんて、世の中から0になればいいのに。
早く本編がはじまればいいのに。
面白いところだけ見たいのに!
しかし説明部分は0にはならない。
絶対必要なのだ。
何故?
それは、伏線になるからである。
順を追って説明しよう。(結局説明かよ!)
説明部分は、
その世界の基盤を確定させる。
例えば空間はここからここまでと確定させる。
(例:学園ものなら学校内とその周辺、田舎から出ていく話なら田舎と都会)
時代とタイムスパンを確定させる。
つまり、4次元時空間の範囲を決める。
また、そこに関わる登場人物空間を確定させる。
そして、人物が関わる事件や焦点を確定させる。
全部が同時に行われないし、
順番もバラバラな筈だ。
一回設定したけど再設定するのがどんでん返しだ。
説明部分は、これらを一通り説明しなければならない。
一通り説明してから本編を始めるのは馬鹿で、
大抵は話の進行に巧みに説明を混ぜることで設定を済ませる。
にしてもだ。
上手い説明と下手な説明があるのは何故か?
それは、その説明をもう一度使うかどうかで決まる。
下手な説明は、一度聞いたら、
はい説明終わり、として二度と使わない。
つまり説明の使い捨てだ。
だから説明なんてなるべくないほうが良くて、
中身を濃くするために説明を捨てたがるはずである。
説明2、中身8なら、説明0、中身10になるのを理想と考えてしまう。
それは、説明を使い捨てにしているからである。
上手な説明は、説明上手であることも勿論だけど、
それを後で生かす。
つまり、さっきの説明や、序盤で出てきた説明が、
伏線になっているのだ。
そうすると、説明2、中身8でも、
2の部分が伏線になるため、そこも中身になってしまうのである。
説明2が詰まらないから中身8で勝負するのではなく、
中身10で勝負出来るようになる。
つまり、捨てる無駄がないのである。
上手い説明は、
一回して終わりではない。
必ずその説明をあとで使う。
あとで見ればその説明は伏線だったのだ、となり、
中身の一部になってしまうのである。
あなたは、ただ説明してるだけだから、
説明が詰まらないし下手なのである。
そこをあとで再利用することを考えた上で説明すればいいのだ。
説明をする、行動をする、なんて一個一個区切ってるから詰まらない。
説明しながら伏線を張り、行動しながら思いは別のところに、
などなど、何重にも畳み込まれているものである。
映画に捨てる部分はない。
それは、全てが無駄なく生きる、
機能して絡み合うということを格言にしたのである。
そうでなくては、有機的な脚本など書けない。
ちなみにコツは、三つ以上重ねないこと。
二つまでね。(2.5の原則)
2015年08月26日
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