2015年08月27日

知らない人と知ってる人になること

まずはあなたは、
何も知らない人として、お話を思いつく。
大抵全部ではなく、部分をだ。
それをアイデアという。

次に、知っている人からそのアイデアを検討する。


調べものによってである。

たとえば、
「将棋の対局中、トイレに行くことを理由に長考する」
というアイデアが、実際にあり得るかどうかを調べる。
裏取りといってもよい。
(その結果、風魔9話ではあのトイレで全て繋がっている、
名構造が生まれた)


ある程度これから書こうとする専門ジャンルに触れ、
ある種のリアリティーを詰めるのだ。
しかし詰めすぎてはいけない。
なんとなくでいい。

何故なら、リアリティーにがんじがらめになり、
「そんなのあり得ない」になってしまうからだ。

そんなのあり得ないことを描くのが物語だということを、
忘れてはいけない。


まずあなたは、
知らない人として、お話を思いつく。
そうだったらいいな、というアイデアだ。
アイデアを出すのは、知らない人ほど大胆に出せる。

次に、知ってる人として、お話が成立しそうかを考える。
普通はないけど、特例としてはあるだろう、
程度に詰める。

そして、また知らない人になる。
妄想の翼を広げ、面白い方向に話を動かす。
必要とあらばまた調べものをして、
知っている人として、あり得るかどうか、
あり得る為にはどういう条件を詰めればいいかチェックする。

以下繰り返し。


知らない人は、無責任に妄想出来る。
その立場を大いに利用しよう。
どんな妄想でも可能だ。
それが、「それが起こると面白いぞ」というアイデアを生む。
これは、詳しく知っている人ほど妄想の翼は広がらない。
女の醜さを詳しく知ってるヤリチンほど、
クラリスみたいな美しく高潔な心のヒロインは思いつけないだろう。

知っている人は、リアリティーを詰める為にいる。
何故なら世の中には、
あなたが知らないとしても存在することが沢山あるからだ。
あなたが童貞だからといって、
男女の醜いセックスがらみの世界が存在しないわけではない。
そして、世の中の多くの人はそれを知った上で、
あなたの作品を見る。

知らない人が妄想した面白さが、
どういうリアリティーの範囲なら成立しうるかを、
創作するために、
知っている人は存在する。

決して、リアリティーがないと否定するために存在してはならない。
普通こう考えられて、こう行動するものだ、
何故ならこのような理論がある、
と調べた上で、
そのリアリティーの中で、
知らない人が妄想した面白さを成立させるには、
どういうリアルな文脈を創作すればいいか、詰めるのである。

クラリスの例で言えば、
存在のリアリティーを保証するのは、
「箱入りにきちんと育てられた」だ。
泥棒だろうが構わず人に優しくし、
好きな人の仕事を覚えたいというけなげさが、
リアリティーを詰めている部分である。


てんぐ探偵56話の光太郎の例で言えば、
鞍馬流剣術が現存することは知っていたが、
それを使いこなすといいな、というのが、
鞍馬流を詳しく知らない人としての特権的夢想だ。

そこで、知っている人としてリアリティーを詰める。
十本の技からなることと、
代表的な技が「変化(へんか)」であることと、
直系は途絶えていて、現存するのは東京の分派であるということだ。

で、知らない人としてまた夢想する。
鞍馬天狗直伝の流派は、鞍馬山内で伝承されていると。
東京のものは分派に過ぎず、
失伝していない技は豊富にあると。

で、また知っている人になる。
動画を探しだし、変化を中心に他の技も確認する。
変化は鎬で面うちを半円に巻く、剣道の巻き落としに似てることを確認する。
鞍馬流が、明治期の警視庁流に採用されていることも知り、
その他の技も知る。
そのなかに神道夢想流の巻き落としが採用されていることも知り、
それは半円でなく円の螺旋である(刃筋を気にしない杖術の技)違いも確認し、
それは槍術の系譜であることも確認する。
つまり、巻き落としには、
短い得物と長い得物の二種類やり方があることを確認しておく。

で、また知らない人として考える。
剣で変化を使うのはベタだ。
ヒネリを効かせて、
天狗の葉団扇で変化を使うのはどうだと。
ふわりふわりとした日本舞踊の扇子のようなイメージが湧き、
ふむ、京都出身のイメージにぴったりだぞと。


考えるときはここまでだ。

書くときは、知らない人にまた戻って書く。


一から知らない人に話すつもりになるためだ。
知らない人に話しながら、
「一緒に知識を共有していく過程」として、
話を書くのである。



話をするのが下手な人は、これが出来ない。
知らない人が何を知らないかを知らず、
自分の知っていること前提で話を進めてしまう。
お互い知らない人として、
知ってゆく過程として、
お話すればいいだけなのに。


それには、知らない人と知ってる人の間を行き来出来ることが重要だ。

知らないときの自分が、
どうやって知っていったかを思い出して、
その筋道を、上手く面白く捉えられる人だけが、
話が上手い人である。


だから、知らないジャンルの話を書く方が、面白い。
知っていることを書くと、
知らなかったときの自分の記憶を忘れていることが多く、
一方的で、押しつけの強い話になるものだ。

知らなかった自分が、
そもそもどうしてそれを知ろうと思ったのか、
そういう一番大事なことも、
知っていることなら忘れてしまう。

僕はカンフーや武術が大好きなので、
こういうのを書くときは、
よく知らない流派についてはじめて書くことにしている。
あと理系の知識も、知らない人がどこまで知らないかを分からないので、
あまりその話をすることもなくて寂しい限りである。



知ってる人であり、
知らない人であれ。

これはなかなかに難しい。
意識しても難しい。

強制的に知らない人になる方法は、
全てを引き出しにしまって、
半年ぐらい放置することぐらいしかない。


知ってる人であり、知らない人になるには、
訓練しかない。
posted by おおおかとしひこ at 13:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック