2015年08月28日

狂言回し、三人称、一人称

狂言回しのことを考えていたら、
これはまたもや三人称/一人称の問題と関係があるぞ、
と気づいたので書いておく。


「狂言回し」は狂言という舞台芸術から生まれた言葉だが、
以来日本ではどの物語ジャンルでも使われる。

狂言回しは、語り手とも呼ばれる。
物語と絡まない。
物語の渦中にいるのだが、
極端にはカメラ目線で、現在のストーリーの状況をかいつまんで教えてくれる役だ。
たとえば「タイムスクープハンター」の主人公は狂言回しである。

有名な例ではスターウォーズのR2D2とC3POだ。
舞台劇でよくあるのは、
召使いたちが旦那様の様子や戦争が近いことを、
「噂話の形式」で観客に示す事である。

スターウォーズの狂言回しコンビは、舞台劇の召使いたちと同じ役割だ。
(召使いロボットだし)


さて、狂言回しの特徴は、
「話に絡まない」ことである。

召使いはお屋敷の冒頭部や、場面変わって最初や、
「数年後」の最初に出てきて噂話をするだけで、
話には絡まない。
絡まないから無責任な立場になれるし、
それはある意味客観的だということである。

舞台なら同じ場所、たとえばお屋敷内で狂言まわしていればいいのだが、
場所が移動する映画では、
狂言回したちも、何かの都合で本隊についてこなければならない。
あるいは、主人公たちの行く先に偶然居合わせるかである。

別に「噂話」はしなくてよい。
世界にはいるのだが、
本筋に影響する事なく、
ストーリーの客観的状況をうまいこと観客に伝えられればかまわない。


さて、狂言回しは、映画には、必ずしも必要ない。

あったらあったで、
何か面白おかしいことをしてくれる、
ピエロのような役割をしてくれるから、あったら面白いが、
なくてもいい。

たとえば古典「戦艦ポチョムキン」の「オデッサの階段」のシーンでは、
乳母車の赤ん坊は狂言回しだ。

銃撃戦の中変化しないし、銃撃戦に影響を与えないからだ。
しかしあの乳母車があることで、
オデッサの階段の惨殺の悲劇との対比が鮮やかに行われるのだ。
優れた表現である。


つまり、狂言回しは、一種の道具である。


今のところ、三人称形式について僕は書いている。

三人称形式では、主人公だろうが敵だろうが狂言回しだろうが、
目の前にいる他人である。
役割と重要性が違う程度だから、さほど難しいことではない。


ところが、一人称の場合、ややこしいということが分かった。


「『わたし』が狂言回しの場合がある」ということである。



たとえば、科学者のレポートや新聞記者の記事は、
作者「わたし」が事態に介入していないため、
事件の当事者たち(主人公や敵)からすれば、
狂言回しに相当するのである。
(タイムスクープハンターの例は、まさにそれだ)

さて、ここがややこしい。
一人称の「わたし」は、三人称の主人公ではない。
(専門用語があるのなら教えてください)


三人称の主人公が狂言回しになることはありえない。
何故なら、主人公は、最も行動して最もストーリーを動かす人だからだ。
狂言回しと真逆の立場である。

ところが、一人称の「わたし」は、狂言まわしになる可能性がある。

たとえば、
映画「少年時代」は、漫画原作、さらに大元は小説原作であるが、
この主人公「わたし」は、狂言回しだ。
いじめっ子たちの抗争に巻き込まれるが、
自ら何かをしてタケシを救う事はない。
「なにも出来なかった」という話だ。
時が来て国へ帰るだけの、事件の傍観者であり、レポーターに過ぎない。

勿論、主人公は子供がゆえに何も出来ず、そのもどかしさがテーマなのだから、
行動しまくれ、ストーリーを動かしまくれ、
と批判しても無駄である。

つまり、「わたしの狂言回し性」こそがテーマの映画だからこそ、
希有なパターンで成功したのである。

対比的に、「スタンドバイミー」では、
主人公は要所要所で自分の決断をし、ストーリーを動かす役割をする。
最初は旅に一緒にいく程度だが、
第一ターニングポイント、「きみはなにをする?」という問いに答えられず、
ミッドポイントでつくりばなしをし、
次の朝一人で白鹿を見て秘密にし、
クライマックスでは銃を向けるヒーローとなる。

さすがアメリカ映画だ。
何も出来ないことがテーマの日本映画に対して、
行動への階段を上ってゆくのである。



元来、日本人は他力本願である。
自然に任せる、とか、お天道様とか、世間を基準とする。
自分に軸がない。
だから、「わたし」は傍観者、観察者、記録者、
すなわち、ストーリーに介入しない、狂言回しになりがちだ。

疎外感を主なモチーフとした私小説とは、まさに、
自分以外はアイデンティティを持ち世界を動かしているのに、
自分だけがその世界から孤立し、
何も出来ない自分を描き、
「わたし」を事件に介入しない狂言回しとしているのである。


さて、メアリースーだ。
メアリースー症候群の正体は、
この、一人称の「わたし」が狂言回しになってしまう現象を、
三人称に誤ってそのまま持ってきてしまった事に起因するのである。

「落下する夕方」テンプレもまさにそうだ。


この混同が、
行動しない、作者の繊細さや願望を反映した、
誰かになぜか好かれ、世話されまくり、愛される、
三人称型では不自然きわまりない、
主人公を書いてしまうのである。


前記事の、
なぜか女子高生と海へ行くテンプレも、同じくである。
まったく同じことが起こっている。

一人称はわたしを書く。
小説とはなにかについて、僕は良く知らないのでこれ以上書けないが、
三人称については良く知っている。
三人称でわたしを書くのは間違いである。
三人称の言葉の定義通り、「あの人」「彼」「彼女」「彼ら」を書くのだ。




さて、三人称の狂言回しは楽しいものだ。
たいていヘンテコなキャラをピエロ的に仕立て上げられる。

一人称で、「わたし」でない狂言回しがいるとすれば、
三人称の狂言回しと同じだ。きっと楽しいキャラだ。


一人称における、「わたし」は狂言回し、または三人称での主人公。
この一人称の幅広さが逆に小説の特色であるともいえる。
(小説に、ルポタージュ形式や回想録形式がある理由が、
まさにこれだと思う)


三人称で、主人公を狂言回しにするな。
それは、召使いレベルの重要度だ。


(僕は、「召使い」を差別用語として使っている。
欧米社会は召使い、すなわち黒人、ヒスパニック系、アジア人の存在がないと、
白人のホワイトカラー仕事が成り立たない、実質の奴隷制社会であることぐらい、
そろそろみんな気づいてるよね?
名目的には奴隷解放かもしれないが、実質は奴隷制社会だ。
日本での学歴差別ピラミッド社会が、欧米では人種になっているだけだ。
ちなみに差別は遺伝する。正確に言うと、親の世代から子世代に受け継がれ、
逆転することは稀だ)



ご多分に漏れず、
実写版の糞進撃の巨人、糞ガッチャマンの主人公は、
ストーリーにとって、召使いレベルである。
一生狂言まわしてやがれ、ばかやろう。
posted by おおおかとしひこ at 22:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック