2015年08月29日

恋は盲目

「何をしてもこの人が好き」となるのが恋だ。
「たとえ失敗してもダメでもこの人が好き」となるのが恋だ。
一旦こうなってしまうと、
映画で達成すべきことと真逆の状態が訪れる。

映画で達成すべきことは、
「この人はこういうことをなし得たから好き」であり、
「この人はこういう愚かなことをしたから憎む」である。


どうであるか、どうであったかより、
何をするか、何をしたかで人の評価が定まる。
(be, wasより、do, did、
How beではなく、What do)

何故なら、映画は動き(アクション)で、
人間を表現する三人称メディアだからだ。
(対比的に、写真は動かないので、
何をしたかより、どうであるかで決まるメディアだ)


作品全体でなし得たことがあるから、
映画作品の主人公は愛される。

序盤や中盤で好かれるのだとしたら、
そのシナリオは間違っている可能性がある。

それ以降なし得たことが滑っていたとしても、
恋は盲目補正で気づかないからである。


恋する人がいることは、
恋しない人もいるということを頭のなかに入れておこう。
恋しない人から見たとしても、
作品全体でなし得たこと、What didが、
とても価値があるからこそ、
その人がどうであるかに関係なく、
その人は愛されるのである。
(極論すれば、世界中の全員に嫌われていた男が、
実は世界を救ったのだ、というのがその極北である)


つまり、「恋は盲目」は、作品にとって邪魔である。

たとえば、
人気芸能人キャストを起用したことで、
本来のストーリーが歪められること。
あるいは、人気イケメンを起用した、
内容がショボい舞台などで商売が回っていること。

「恋は盲目」を利用することで、
芸能はお金が回る。
それは江戸歌舞伎からの伝統であり、
座付き作家というのは、
人気キャストの為にホンを書いた。

しかし、
ストーリーの面白さが、キャストに左右されるようなレベルでは、
所詮二流だ。

一流のストーリーというものは、
誰が演じようと、誰が出ようと面白いものでなければならない。
無名の誰かが演じても面白く、
全部を見終えて、彼のなし得たことに価値があると感じ、
主人公を認める、愛するようになるのが、
本物のストーリーだ。


あなた自身も、登場人物に恋して盲目になってはならない。

好きなタイプのキャラを出したり、
典型的なキャラを出すときは気をつけたほうがよい。
表面的なbeに恋していて、doまで気が回らない可能性がある。

また、主人公に恋してもいけない。
もっともあり得るのは、
自分を重ねてしまって、自己愛を投影し、
たいしたことをしない(no do)のに、
何故か周囲から愛される(be well)てしまうこと。
これはメアリースー症候群とか、「落下する夕方テンプレ」の名で呼ぶことにしている。
ありきたりな言い方をすれば、
独りよがりである。


主人公は愛されない。恋もされない。
あなたも愛されない。恋もされない。
まずはその前提に立つ。
そこから、何かをして、ようやく認められる。
他の登場人物にも、観客にもだ。
その主人公のなし得たことの価値が、主人公の価値である。
なし得たときにしか、愛されない。
そのつもりで書くべきだ。



僕が二次創作することを勧めないのは、
そのキャラに恋した前提で話を作るのが当たり前だからである。
まあ、恋して盲目になった人たちが、その盲目ぶり、
すなわち萌えを共有しあうのが目的だから、
それについてはとやかく言わない。
しかし、プロになろうとするならば、
盲目から手を切ったほうがいい。
盲目があまりにも多いと信者になり、その中で生きるカリスマとしての、
創作人生もあるかも知れないが。

もっと広い世界を見るべきだ。
世界は残酷だし、全員が全員を訝っている。
彼ら全員を心から振り向かせることを、競うべきだ。

恋はプライベートでしなさい。
作品作りでやってはだめです。
posted by おおおかとしひこ at 12:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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