ストーリーの進展には、二種類ある。
外的なストーリーの進展と、
内的なストーリーの進展だ。
ダメなテンプレ、謎の女子高生と海へ行く話では、
「車で海へ行く」が外的なストーリー、
「性的対象である女子高生と性的行為に及ぶことで、
自分の自信を取り戻す」が内的なストーリーだ。
この話が詰まらないのは、
外的目的を果たすのがワンステップに見えて、
興味が持てないからである。
外的なストーリーの目的、「海へ行く」は、
車に乗ってれば自動的に果たせる。
つまりワンステップの目的だ。
車を持ってない、電車にしよう、いや、レンタカーだ、
待てよ免許がない、などと、
紆余曲折をわざと作って数ステップに見せかけ上増やしたとしても、
「海へ行く」は、ワンステップで叶えられそうな目的だ。
だって行けばいいんだもの。
外的なストーリーの目的に興味が持てないのなら、
外的なストーリーの進展があったとしても、詰まらない。
ワンステップで果たせそうな目的は、詰まらない。
別に犯罪を犯す必要もないし、ただ行けばいいだけ、
の進展は、起伏がない。
そもそも興味を持てなくても、起伏が生まれるのなら、
だんだん面白くなってくることはある。
たとえば移動が厳しく制限されている、
江戸時代や近未来管理社会ならば、
関所を突破して、犯罪者の身になってしまうことは、
ワンステップの目的ではなくなる。
海へ行くことの前に、捕まらないことが加わるからである。
逮捕→脱獄とか、車を捨てて別の車に乗り換えて追っ手をまくとか、
ワンステップで終わらなそうな進展が、
観客をやきもき、ハラハラさせるのである。
つまり、外的なストーリーは、
とてもじゃないけど果たせそうにないものであることが望ましい。
簡単に叶えられる目的は、
興味が持てないのである。
簡単には叶えられそうにない目的だからこそ、
「この難問の解き方が知りたい」と思い、
その解決法の具体に楽しみが見いだせるのである。
そして、観客の予測を越える鮮やかな解決法が、
拍手喝采を浴びるのである。
(最初から拍手喝采レベルを思いつくことは難しい。
だから、誰もが納得する解決法を書くことを心がけるといい。
ワンステップの目的は、誰もが解決出来てしまうから詰まらない)
外的なストーリーとは、
絵で見て解決する問題のことだ。
センタークエスチョンの問題のことだ。
一方、内的なストーリーとは、
主人公(や他の登場人物)の心の中に抱えた問題のことであり、
その解決が、外的なストーリーの解決で示される
(明らかにそうだと観客にも分かる)ことが必要だ。
海へ行くテンプレでは、
「うだつが上がらない」ことである。
この解決は、「海へ行く」簡単な解決で絵で示される。
否、実は海なんてどうでもよくて、
性の対象の女子高生と性的満足さえ得られればOKなのだ。
つまり、この下らないテンプレ話は、
うだつが上がらない内面的問題を、
女子高生と性的関係を持つことで、
うだつが上がったことになる話なのだ。
自分に降りかかったことならば、なかなかに乙なものかも知れないが、
他人に降りかかったことだと仮定してみよう。
同僚や友達や後輩、電車の向かいに座ったオッサンなど、
他人に降りかかったことだと。
そのオッサンがうだつが上がらないので、
女子高生とセックスしてスッキリしました、
という話だ。
な?他人だったらどうでもいいだろ?
自分と他人の区別、つまり一人称と三人称の区別がついていないと、
自分には素敵なことだが、
他人に降りかかったならどうでもええわ、
ということの区別がつかないのである。
これがご都合主義の正体だ。
他人の話であるべき整合性が、
ふっと自分だったらこうなるといいなあ、
という願望が混じってしまうのである。
この混同が、都合のいい展開を書かせてしまうのである。
海へ行くダメなテンプレは、
外的なストーリーの進展にも興味が持てない。
内的なストーリーの進展はご都合主義で、
性的満足がうだつに関係しているかはかなり疑問だ。
つまり、
外的なストーリー、内的なストーリー、
どちらも面白くないから、
ダメなのである。
一筋縄ではいかない外的なストーリー。
他人の内面に共感し、
その他人の内面の克服に感情移入でき、
内面の問題解消が外的なストーリーの解決と表裏一体になるような、
内的なストーリー。
そのどちらもが面白いから、
映画は面白いのである。
ダメなテンプレ「海へ行く」は、
どっちもダメだし、表裏一体にもなっていない、
三重の不合格である。
2015年08月30日
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