前回までのダメなテンプレを踏まえて。
ダメなのは分かった、じゃあどうすればいいの?
面白い三人称の話は、どうやってつくればいいか。
初歩的には、ふたつある。
突飛なことを思いつくこと、
王道を真似すること。
突飛なことを思いつくのは才能だから、
突飛なことの思いつき方については教えられない。
(逆を考えろとか、別ジャンルのアイデアを組み合わせろとか、
擬人化をせよとか、対比や反復や比喩など、
古来から色々ある)
ここで重要なことは、
「他人に降りかかった突飛なこと」を思いつくべきで、
「自分に降りかかった突飛なこと」を思いつくべきではない、
ということだ。
自分に降りかかった突飛なことは、
嫌なことやトラブルや不幸なことやキツイことは、
なるべく嫌がるし、
甘いことや都合のいいことやラッキーや独占に、
ニヤニヤしがちだ。
しかし他人に降りかかった突飛なことは、
その人が嫌がったり、トラブルに巻き込まれたり、
不幸なことがあったり、キツイことほど、面白い。
「他人の不幸は蜜の味」である。
あなたはその意味で、とても意地悪でなければならない。
性格の悪いやつほど、面白い突飛な不幸を思いつくだろう。
性格がよくても、面白い突飛なんて思いつかない。
ある日宇宙人が攻めてきたら、
恐竜を復活させたら嵐で管制塔が壊れたら、
世界戦に指名されたはいいが、周囲の嫉妬や期待に耐えられなくなったら、
心の美醜が見た目の美醜になる催眠術をかけられたら、
百億を当てたが一週間で使いきらなければならなかったら、
悪魔が契約をしにきたら、
などなど、
他人のことなら、いくらでも思いつくだろう。
突飛であればあるほど面白い。
性格がいい人は、脚本家に向いていない。
面白い追い込みが出来なければ、面白い突飛にはたどり着けないだろう。
ある日優しくされたら、
ある日家族が団結したら、
ある日神様がギフトをくれたら。
ね、つまんなさそうな話でしょ?
普通、裏があると思うよね?
宗教話や道徳話が詰まらないのは、
性格がいい人がつくる突飛の範囲にしかないからである。
あなたは性格が悪いのなら、脚本家に向いている。
他人に降りかかった突飛を思いつく才能があるかも知れない。
しかし。
ただ性格が悪いだけでは、脚本は最後まで書けない。
「それをどうやって解決するか」まで思いつけないからだ。
それを解決する過程で、
団結や自己犠牲や昇華などの、
人のよい部分を使わなければならないからである。
不幸に追い込まれた他人は、
性格が悪いだけではそれを避けるか他人に押しつけることでしか、
解決出来ない。
しかしそれを根本解決しなければ、映画的物語の面白さではない。
だから、人のよい部分を使わなければ、
根本解決は難しいのである。
従って、あなたは、性格が悪く、しかも良くなければならない。
人に優しいだけで人の暗部を知らないのは、向いていない。
性格が悪いだけで人を信じないのも、向いていない。
どちらも伸ばさないと、物語など書けないのだ。
その意味で、作家というものは常に分裂症だ。
他人の蜜のごとき不幸を考えながら、
それを他人のいい部分で乗り切ることを同時に考えるからだ。
自分を主人公にしてしまうと、逆をやってしまう。
自分に都合のいいことが起こって、
不幸がなくなる話を書いてしまう。
それは、三人称の他人、
彼や彼女や彼らの話としてはまるで面白くない。
他人に都合のいいことが起こって、
不幸がなくなる話だからだ。
「客観性がない」などと批判されるアマチュア作家などは、
この自分←→他人変換が、うまくいってないのではないだろうか。
一人称小説はこの際除外して、三人称の話だけに絞っている。
むしろ、
一人称とは、自分に都合のいいことが起こって、不幸がなくなる話、
三人称とは、他人に蜜のような不幸が起こって、彼の人間力で克服する話、
と定義してもいいかも知れない。
(ご多聞に漏れず、僕は一人称小説に詳しくないので、
違ってたらすいません)
さて、
突飛なことだけ出来ても、話は書けない。
突飛なことしかしない、単なるキチガイ作品になるだけだ。
(突飛なことしかしなくて、どんどん滑っていく三作品をあげておく。
「survive style 5+」「鈍獣」「さらば愛しの大統領」)
最終的に、お話は王道でなければならない。
これは僕の主張であり、全てではないかも知れない。
王道とは、みんなが楽しめること、ただしいこと、
だと思っている。
一部しか楽しめなかったり、間違ってるものは、王道ではない。
黄金パターンやベタが王道なのではない。
王道に黄金パターンやベタが利用されているだけだ。
ということで、過去の名作を見ることは、
王道とはなんだ、と考えることに大変よろしい。
僕は80年代や90年代が基本のベースで、
70年代以前を古典と考える世代だけど、
下手したら90年代以前が若者の古典になってる。
現代のものは、王道を変えようとしてる実験的なものも多いから、
王道の勉強には適さない。
50年代、60年代、70年代、80年代、90年代の名作を見よう。
人類の集合的無意識が、何を王道と思っているかを探ろう。
王道は真似しても怒られない。
よくあることだからだ。
丸パクリはダメだけど。
そもそも自分のオリジナル設定のなかに、
王道展開や王道クライマックスや王道ラストを入れても、
それはパクリでも何でもなく、
単なる王道である。
王道の真似は、人が何を標準と思っているかを、
体に覚えさせることになる。
突飛な不幸。
王道の展開。
王道の基礎の上に、突飛の花を咲かせよう。
それが何本も何十本も書けて、ようやく初歩卒業だ。
2015年08月30日
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