2015年08月30日

面白い三人称の話のつくりかた(初歩)

前回までのダメなテンプレを踏まえて。

ダメなのは分かった、じゃあどうすればいいの?

面白い三人称の話は、どうやってつくればいいか。
初歩的には、ふたつある。

突飛なことを思いつくこと、
王道を真似すること。




突飛なことを思いつくのは才能だから、
突飛なことの思いつき方については教えられない。
(逆を考えろとか、別ジャンルのアイデアを組み合わせろとか、
擬人化をせよとか、対比や反復や比喩など、
古来から色々ある)

ここで重要なことは、
「他人に降りかかった突飛なこと」を思いつくべきで、
「自分に降りかかった突飛なこと」を思いつくべきではない、
ということだ。

自分に降りかかった突飛なことは、
嫌なことやトラブルや不幸なことやキツイことは、
なるべく嫌がるし、
甘いことや都合のいいことやラッキーや独占に、
ニヤニヤしがちだ。

しかし他人に降りかかった突飛なことは、
その人が嫌がったり、トラブルに巻き込まれたり、
不幸なことがあったり、キツイことほど、面白い。
「他人の不幸は蜜の味」である。

あなたはその意味で、とても意地悪でなければならない。
性格の悪いやつほど、面白い突飛な不幸を思いつくだろう。
性格がよくても、面白い突飛なんて思いつかない。

ある日宇宙人が攻めてきたら、
恐竜を復活させたら嵐で管制塔が壊れたら、
世界戦に指名されたはいいが、周囲の嫉妬や期待に耐えられなくなったら、
心の美醜が見た目の美醜になる催眠術をかけられたら、
百億を当てたが一週間で使いきらなければならなかったら、
悪魔が契約をしにきたら、
などなど、
他人のことなら、いくらでも思いつくだろう。

突飛であればあるほど面白い。
性格がいい人は、脚本家に向いていない。
面白い追い込みが出来なければ、面白い突飛にはたどり着けないだろう。

ある日優しくされたら、
ある日家族が団結したら、
ある日神様がギフトをくれたら。

ね、つまんなさそうな話でしょ?
普通、裏があると思うよね?
宗教話や道徳話が詰まらないのは、
性格がいい人がつくる突飛の範囲にしかないからである。

あなたは性格が悪いのなら、脚本家に向いている。
他人に降りかかった突飛を思いつく才能があるかも知れない。


しかし。
ただ性格が悪いだけでは、脚本は最後まで書けない。
「それをどうやって解決するか」まで思いつけないからだ。
それを解決する過程で、
団結や自己犠牲や昇華などの、
人のよい部分を使わなければならないからである。

不幸に追い込まれた他人は、
性格が悪いだけではそれを避けるか他人に押しつけることでしか、
解決出来ない。
しかしそれを根本解決しなければ、映画的物語の面白さではない。
だから、人のよい部分を使わなければ、
根本解決は難しいのである。

従って、あなたは、性格が悪く、しかも良くなければならない。
人に優しいだけで人の暗部を知らないのは、向いていない。
性格が悪いだけで人を信じないのも、向いていない。
どちらも伸ばさないと、物語など書けないのだ。

その意味で、作家というものは常に分裂症だ。
他人の蜜のごとき不幸を考えながら、
それを他人のいい部分で乗り切ることを同時に考えるからだ。


自分を主人公にしてしまうと、逆をやってしまう。
自分に都合のいいことが起こって、
不幸がなくなる話を書いてしまう。
それは、三人称の他人、
彼や彼女や彼らの話としてはまるで面白くない。
他人に都合のいいことが起こって、
不幸がなくなる話だからだ。

「客観性がない」などと批判されるアマチュア作家などは、
この自分←→他人変換が、うまくいってないのではないだろうか。

一人称小説はこの際除外して、三人称の話だけに絞っている。
むしろ、
一人称とは、自分に都合のいいことが起こって、不幸がなくなる話、
三人称とは、他人に蜜のような不幸が起こって、彼の人間力で克服する話、
と定義してもいいかも知れない。

(ご多聞に漏れず、僕は一人称小説に詳しくないので、
違ってたらすいません)



さて、
突飛なことだけ出来ても、話は書けない。
突飛なことしかしない、単なるキチガイ作品になるだけだ。
(突飛なことしかしなくて、どんどん滑っていく三作品をあげておく。
「survive style 5+」「鈍獣」「さらば愛しの大統領」)

最終的に、お話は王道でなければならない。

これは僕の主張であり、全てではないかも知れない。
王道とは、みんなが楽しめること、ただしいこと、
だと思っている。
一部しか楽しめなかったり、間違ってるものは、王道ではない。

黄金パターンやベタが王道なのではない。
王道に黄金パターンやベタが利用されているだけだ。

ということで、過去の名作を見ることは、
王道とはなんだ、と考えることに大変よろしい。
僕は80年代や90年代が基本のベースで、
70年代以前を古典と考える世代だけど、
下手したら90年代以前が若者の古典になってる。
現代のものは、王道を変えようとしてる実験的なものも多いから、
王道の勉強には適さない。
50年代、60年代、70年代、80年代、90年代の名作を見よう。
人類の集合的無意識が、何を王道と思っているかを探ろう。

王道は真似しても怒られない。
よくあることだからだ。
丸パクリはダメだけど。
そもそも自分のオリジナル設定のなかに、
王道展開や王道クライマックスや王道ラストを入れても、
それはパクリでも何でもなく、
単なる王道である。

王道の真似は、人が何を標準と思っているかを、
体に覚えさせることになる。



突飛な不幸。
王道の展開。

王道の基礎の上に、突飛の花を咲かせよう。

それが何本も何十本も書けて、ようやく初歩卒業だ。
posted by おおおかとしひこ at 14:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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