僕は、芸術というものはたいして難しくないものだと思っている。
誰にでもわかり、誰にでも味わえるものだと思っている。
一部の人しか分からない至高もあるのかも知れないが、
他の人を拒否することもないだろうと思っている。
美しいとか美しくないとか、
分かるとか分からないとか、
分かってかつ美しいとか、
みんなで議論出来るものだと思っている。
映画は芸術だし、歌も絵も漫画も小説も演劇も芸術で、
デザインも芸術だと思っている。
芸術はアカデミーにこもる一部の権力者のものではない。
歴史を踏まえた評論家が、
大衆にも分かるように解説し、
これのこういうところを踏まえた上で、
こう発展させたのだ、
と解説できるものであると考えている。
理想主義にすぎるかも知れないが、
芸術で理想を語らずして、何で理想を語るのだ。
面白い面白くない、
良くできてるできてない、
美しい美しくない、
機能するしない、
感性と理屈と、意識と無意識の、
全ての交差点に芸術はいるはずだ。
芸術という言葉が、難しい言葉だとしたら、
僕のいう芸術は、文化といってもいい。
芸術と文化に僕は違いがない。
どちらも豊かで、楽しく、時にせつなく、
人生を肯定するものだと思っている。
そこに、少しだけ技術が介在する。
それをアートというだけだと思う。
(だから科学も文化で芸術だ)
僕は、そのような素晴らしいものであるからこそ、
人類の宝であると考える。
誰かの成功はよくやったと称え、
誰かの失敗にはブーイングし、
罪を憎んで人を憎まず、次の作品を待てばいいだけだ。
だから、こっちが知らないと思って、
人の苦労をパクる奴が許せない。
いや、罪を憎んで人を憎まずだった。
人の苦労をパクる行為が許せない。
そのパクりに騙されるぼんくらたちが許せない。
いや、罪を憎んで人を憎まずだった。
そのパクりに騙されるぼんくら行為が許せない。
じゃあ佐野よ。血を吐きながらオリジナルをつくれや。
誰にも認められなくてもいいから、
神様だけに認められ、神様だけには恥ずかしくない、
いいものを作ってみろや。
一円も稼がなくてもいいから、
自分のオリジナル作品で人を幸せにしてみろや。
作者名が残らず、作品が残る人生を選べや。
そんなことやったことないんじゃないのか?
詠み人知らずだが、これはいい、という残り方のほうが、
一代で財をなすことより、僕には理想だ。
パクりだろうがそうでなかろうが、佐野デザインは僕は嫌いだ。
幼稚園のお遊戯としてなら、かわいいねえ、と言えるレベルだけど。
それは、絵柄だけでなく、モチーフとテーマの関係が、
たいして新しい考え方ではないからである。
普段もっと大人の作品を作っていて、時々こういう子供な考え方も必要だよ、
と言うのにはちょうどいいけど。
佐野デザインには手書きの良さが全然ない。
ポンキッキやモンティパイソンで育った、
70年代のアナログ世代にとって、
イラレで書いた幾何学模様はなにひとつグッと来ない。
ウゴウゴルーガが出たとき、
僕はコンピュータのつくる図形は、偽物だと思った。
正確には、イデアだと思ったが実体がないと思った。
我々は実体を持ち、実体として世界に生きて、実体として死ななければならない。
それが、イデアとしてではなく、
実体を使って実体にある秩序を与えたものが、芸術または文化だと思う。
佐野デザインには、その了解がないと思う。
だから嫌いだ。
せめて積み木のパーツを手書きで作っていればよかったのに。
手書きで色を塗っていれば、あんな変な配色にはならないのに。
そうすれば、ガワでなく、考えが大事だと早晩気づけるはずなのに。
血のにじむほど脳が考えたものでないことは、
血のにじむほど脳で考える我々にはバレバレだ。
佐野デザインには、それはいい考えだ、というオリジナルの考えがひとつもない。
(あるかも知れないから、あったら教えてください。
ついでに、佐藤可士和も大貫卓也も大嫌いです)
長々と畳みもせずに書いているのは、
佐野事件は我々の信ずるものを炙り出すのに、
丁度良いからである。
全ての芸術文化に携わる者の踏み絵に丁度良いからである。
それぐらい、僕はこの一件に関して怒っている。
もう一度基本スタンスを書く。
クリエイトの反対は、イミテイト。
創るの反対は、パクる。
創ることは考えること。パクることは思考停止。
2015年09月02日
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