2015年09月02日

ストーリーとは変化のことである2:他人の話

続き。

一人のなかの変化を描くのは、
一人称のストーリーだ。

このブログでは映画脚本について考えている。
テレビドラマやショートフィルムのストーリーについてもだ。
それらの特徴は、三人称であることだ。

一人称と対比的に考えるのならば、
三人称のなかの変化を描くのが、
三人称的ストーリーだ。


三人称とは、彼、彼女、彼らのことである。
単数形でなく複数形で考え、
のちに単数形を考えることにする。


彼らの変化を描くのが、ストーリーだ。
始点の彼ら。終点の彼ら。
その変化の軌跡。
それがストーリーだ。
理想は、全員が変化することだ。
変化しない人にはストーリーがなかったことになる。
したがってその人は、
理屈上ストーリーから除くことが出来る。
それを繰り返すと、
変化する人たちだけのストーリーに凝縮することができる。

全員が、何故、どうして、
始点の彼らから、変化の軌道をたどり、
新たな状態になったのか、
がストーリーだ。
何故なら、こういう事件があって、
彼らはこう反応し、こうしたからこうなったからだ、
がストーリーだ。
これを僕は「事件と解決」という短い言葉でさしている。

さて、
三人称形とは、
わたしでもなくあなたでもなく、
彼らの物語だ。
他人の話だ。

僕は「猿山の猿を眺める」と表現するけど、
自分でも大切な人でもなく、
知らない他者を眺めるのだ。
他者の変化を見るのである。

従って、変化とは、見た目や行為の変化である。
内面の変化は、外から見ていては分からない。
あることに対するリアクションが変わったとか、
あることをしなくなったとか、
あることをはじめたとか、
外側から見た変化でしか、変化を表現することはできない。
髪や指を切って外見の変化で内面の変化を表現するのは、
比較的幼稚な方法だ。
原始的とも言えるけど、大人のコミュニケーションはもう少し高度である。

変化とは、動きだ。
ダンスとかアクションとかの、物理的動きではなく、
変化から感じられる、
我々のなかの動きの感覚だ。

映画や演劇という三人称形物語は、
この動きの感覚を、
最終的には、絵のなかの動きで表現するメディアである。

大きな変化を、大きなアクションに象徴し、
それを演じるのが、芝居というものだ。

芝居というのは何でもかんでも大袈裟にやればいいものではない。
遠くの席から見ても分かるようにオーバーアクションすることでもない。
変化の大きさを、芝居の大きさに合わせることが、
本当の芝居だ。

演劇では、全身でそれを表現する。
映画にはアップがある。
その画面内での最も大きなアクションが、最も大きな芝居だ。
たとえば目のアップでは、瞬きが一番大きなアクションで、涙を流すより大きい。
顔のアップなら、瞬きよりも涙が流れる方が大きなアクションだろう。
街のロングショットでは、核爆発が最も大きなアクションだが、
地球のヒキでは、核爆発よりも月墜落のほうが大きなアクションである。

演劇では逆に、サイズの変更がないことを利用し、
吊りや回り舞台、どんでん舞台、群舞やバク転や殺陣や階段落ちなどを、
大きなアクションに見せる工夫をする。

映画ではカットを割ったり、カメラを動かすことで、
アクションの大きさを、俳優のアクションとの組み合わせで表現する。



つまり、
映画とは、
彼らの変化を、動きの大小で表現するメディアである。


彼らが彼、と単数形になった場合どうか。
(彼女の可能性もあるが以下彼に統一)
猿山の猿が一匹で何をやっているか、
理解させるのは、その猿の分かりやすさがないと分からない。
それは、パントマイムというサイレントムービーで洗練されたものである。
「人は一人のとき独り言を言わない」から、
言葉を発することなく、
パントマイムで表現するしかない。

心の声をナレーションで被せると、
それは一人称小説の再現になる。

一人のなかの内面を言葉で説明するのは、三人称ではなく一人称だ。

映画は三人称である。

従って、
彼ら複数の変化を描くか、
彼一人のパントマイムを描くかの、
二種類しかない。


これは理解し、覚えるべきことだ。
簡単に、一人称形を混同してここに混ぜてしまうからだ。
簡単にナレーションを被せたり、
簡単にメアリースーを混ぜてしまう。
それは書き手の未熟であり、
三人称形を根本から分かってないことの証明である。
あるいは、変化しないものはストーリーではない、
ということも、なかなか書けない。
変化しない人物を除いて、残ったものしかストーリーではないから、
一度やってみるといい。


さて、
何故、他人たちの彼らの変化が、
そんなに面白いのか。
勝手にやってればいいじゃねえか、俺とは関係ないし、
と思われたら、興味を持たれない。無視だ。


興味のもたせかたには二つある。
扇情と、感情移入である。
つづきます。
posted by おおおかとしひこ at 13:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック