2015年09月02日

ストーリーとは変化のことである3:興味と同調

何故他人の話でしかない、
自分のことではない、親しい誰かのことでもない、
知らない人の話が面白くなるのか。

二つある。
扇情と、感情移入だ。


扇情とは、刺激的な何かで興味を引くことだ。

エロ、グロ、ナンセンス(今風に言えばシュール)などと昔は言われた。
芸能人○○は、果たして○○出来るのか?とか、
芸能人○○が○○役に挑戦とか、
○○が出てるとか、主題歌○○とか、
凄いCGとか、凄いロケ地とか、
凄い撮影方法(新しい機材、手間暇かけたもの)とか、
凄い演技合戦とか、凄いアドリブとか、
凄いデザインとか世界観とか、凄い衣装とか、
あの○○チームが再集結とか、
○○ワールドとか、○○賞受賞とか、
誰かが脱ぐとか。

うわこれやべえよ、という見世物要素で、
人目を引くのである。

容易に考えられる通り、
それは刺激に過ぎず、一定時間たったら飽きてしまう。
だから、普通は複数の刺激物を投入する。

アクションシーンやエロティックシーン、ダンスシーンは、
その代表的なものだ。

さて、
飽きないように上手く刺激を並べ、
変化を描いたストーリーは、まだ二流である。

一流のストーリーには、感情移入がある。
つまり、他人の話のはずなのに、
いつの間にか自分の話だと思い込むことである。
作者が、ではなく、観客が、だ。
間違ってはいけないのは、
作者が感情移入してしまってはダメなことだ。
作者は感情移入の外にいること。
あくまで他者を描く。
観客が感情移入するようにする。

作者は第一の観客でもあるから、
観客として感情移入することと、
作者として突き放して見ていることと、
あなたの中には常に二人いることになる。

作者が感情移入し過ぎて失敗した例は、
刃牙のオウガ、北斗のラオウなどだ。
(ラオウで終わっていればラオウは失敗ではなかった。
しかしラオウで終わらなかった結果から見れば、ラオウは失敗だ)

スターウォーズのシリーズとしてのダース・ベイダーも、
そこに入ると思う。
(オリジナル1、現エピソード4のダース・ベイダーは名悪役だった)

作者が感情移入し過ぎて失敗した主人公の例は、
メアリースー的な主人公がとても多く、
それは例が多すぎて書ききれない。
ふたつだけ、糞進撃と糞ガッチャマンをあげておこう。


さて、その失敗に落ちずに上手く感情移入させられれば、
それは一流のストーリーになる。

他人の変化を、まるで自分の変化のように感じるからだ。
バットエンドよりハッピーエンドが好まれる理由がこれだ。
本当に感情移入が上手くいけば、
ハッピーエンドへの変化は、
自分が幸福に変化したような気分になるからだ。

終点が幸福ということは、
始点はその逆の不幸だ。
ストーリーとは変化だからだ。
つまり、感情移入がうまくいけば、
不幸から幸福に、自分の気分が変化する。

これが、映画を見る理由である。

変化がストーリーだから、
始点は幸福の逆変化、不幸である。
(始点が幸福で、途中が不幸で、終点が幸福、
という変化球もあるが、ここでは話を簡単にする)

感情移入とは、したがって、
不幸から幸福を目指すときに起こるのである。

その不幸の内容に、
他人の話のはずなのに、自分だったら、
と仮定してしまうことが、
実は感情移入のはじまりなのだ。
(これ以外にも感情移入のパターンはありうるが、
代表的なもので話を簡単にする)

つまり、
一流のストーリーとは、
ちょいちょい入る扇情で飽きることなく、
始点の不幸に同情や共感をし、
幸福へと変化していく過程で感情移入し、
幸福という終点への変化で、
自分も幸せになってしまう、
全員が変化する人たちの、
三人称形で描かれるものである。



僕は、これをストーリーの定義にしたい。(今のところ)

途中話を簡単にするために、
例外を省いた。
実際の一流のストーリーは、
これに枝葉がつく可能性が高い。


はじめてこの定義を見ても、なんだこりゃとしかならないだろうね。
今まで読んできた人なら、理解できる到達点みたいなことかね。
posted by おおおかとしひこ at 15:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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