主人公に関する誤解がある。
「活躍する人が主人公」である、ということだ。
主人公に観客は自分を投影するから、
大活躍して鬱憤を晴らすのだ、
という誤解だ。
これは感情移入という機構をよく理解していないことから起こる、
初歩的な(たとえば編集やプロデューサーすらもしている)
誤りである。
三人称形において、
最も活躍するのは、高スペックの人物である、
という誤解のため、
スーパーマンを主人公にしてしまうのは、
よくある誤解だ。
高スペックの人間が、
低スペックの人間から見れば活躍するのは、
その人にとっては当たり前でしかなく、
その人にとっては日常である。
つまり、変化をしていない。
世界チャンピオンが試合に勝つのは日常であり、変化を経験せずともできる。
凄腕の殺し屋が殺しまくるのは日常であり、変化を経験せずともできる。
やりちんがセックスするのは日常であり、変化を経験せずともできる。
専門家が専門技能を発揮するのは日常である。
それを習得するまでに変化を経験してきたかも知れないが、
既に習得したものの発揮については日常である。
ウルトラマンがスペシウム光線を出すのは、
陸上選手のダッシュと同じだ。
それがどんなに凄くてもだ。
変化しない人はストーリーではない。
したがって、これらの高スペックの人物たちは、
ストーリーを経験しないので、
登場人物から除外出来る。
ウルトラマンやスーパーマンは、ストーリーではない。
多くのヒーローものでは、
ヒーローを主人公のように描くが、
実際のところは、ヒーローに助けられる人が主人公であることが多い。
虐げられた人が、ヒーローに助けられることで、
自信や失地を回復する物語が多い。
ヒーローは触媒に過ぎず、自ら変化しない。
ヒーローが活躍する場面は、実のところストーリーではない。
セクシーシーンと同じく、
扇情の場面に過ぎない。
アクションシーンや特撮シーンも全てそうだ。
そのシーン中では、変化は描かない。
相手を負かした、相手側の変化はあるが、
ヒーロー側の変化はないからだ。
ヒーローにとっては我々が一日仕事をするような、
代わり映えのない無変化の一日に過ぎないのである。
(刺激はあるかも知れないけれど)
ヒーローが主人公になるのは、
活躍の場面ではなく、
変化が描かれるときだ。
「キックアス」は、ヒーローでない高校生が、ヒーローに「なる」話だった。
僕が「スパイダーマン2」を愛してやまないのは、
それが変化を経験する、ヒーロー主人公のストーリーだからである。
名作ドラマ「風魔の小次郎」についてもそれは同様だ。
ヒーローかどうかは、スペックだ。
主人公かどうかは、変化の大きさで決まる。
スペックや内面が変化しないヒーローは、ストーリーではない。
従って、ヒーローを主人公にしたいならば、
内面の変化のストーリーをつくるべきである。
変化しないヒーローは、いわば狂言回しなのである。
変化する助けられる人のドラマに、
一瞬登場してオイシイ所を見せて、変化せずに去って行くだけなのだ。
その結果、助けられた人が変化を見せることで、
ヒーローものは、ストーリーとして成り立っていることが多い。
つまり、ヒーローものにおけるクライマックスとは、
ヒーローが活躍する凄い金のかかった場面ではなく、
(扇情のクライマックス)
助けられる人が、大きな変化をする場面なのだ。
「てんぐ探偵」では、妖怪の外れる瞬間がそこになるように、
話が組まれていることにお気づきだと思う。
シンイチが天狗面を被って小鴉を振るうことはどうでもよくて、
これまでの心の負のループから抜け出す、変化の瞬間が、
(実質)最大のクライマックスになっているのだ。
(たいてい、ラストで変化が確定して、ハッピーエンドになる)
殆どのレギュラー話では、シンイチは主人公ではなく、
宿主が主人公である。
初期や要所や最終集では、逆にシンイチが主人公だ。
シンイチの不安定な変化があるときだけ、
シンイチが主人公であり、
安定したヒーローであるときだけ、
宿主の不安定な変化が主人公なのである。
ヒーローものは話が極端なので、分かりやすい。
これを、「高スペック」までリアルにすると、
大抵誤解を生む。
有能な刑事、検事、弁護士、外科医。
有能な小説家、監督、俳優。
有能な音楽家、ロックスター。
有能な外交員、投資家、政治家。
有能なリア充。
彼らの活躍を描けばストーリーになると早合点するのは、
ストーリーを分かっていない証拠である。
さて、極端にいうと感情移入は不幸への同情からはじまるのだった。
有能な人間の有能ならではの苦悩に、庶民である我々は興味がない。
庶民である我々が興味を持つのは、庶民である我々の苦悩に近いものだ。
したがって、有能な人間は、
その有能さとは関係ない、
別のところで、我々庶民と似たような苦悩を持っていることが、
ストーリーの中では多い。
感情移入のしやすさにおいてである。
その苦悩をハッピーエンドに変える、
我々庶民と似たような変化の話を描いた(感情移入)上で、
その有能さで大活躍する(扇情)から、
ストーリーは面白いのだ。
その原理を知らずして、
扇情的な高スペックばかり考えるのは、
馬鹿である。
高スペックの活躍がストーリーだという誤解は、
本当に世の中に広がりすぎている。
馬鹿トヨタがマークXに乗った高スペックサラリーマンを主人公にした
(つもりの)世紀のクソドラマ「サムライコード」(佐藤浩市主演)
を見るといい。多分入手不可能だろうけど。
何故このドラマが糞かは、これまでの議論どおりだ。
主人公の高スペックばかり延々と見せられて、
主人公が変化しないからだ。
高スペックの押しつけがましさたるや、最悪の中の最悪である。
どうにかして入手し、勉強するととてもよい。
このクソドラマから漂う嫌な感じを、
初心者であるあなたは書いているかも知れないよ。
ヒーローは弱点が魅力的でなければならない。
その経験則は、ヒーローに変化のストーリーが必要であることを、
直感的に表しているのである。
ストーリーとは変化である。
大抵はマイナスの始点からプラスの終点へ至る。
だから、高スペックだが問題や弱点を抱えた主人公が、
問題や弱点を克服するように変化する(感情移入)。
その結果、高スペックで大活躍(扇情)。
これがストーリーである。
(途中でスペックを高めるような修行をするのはオプションだ)
その変化が最も大きく、ドラマチックな第三者が、
主人公と呼ばれるのである。
決して最強とか高スペックが主人公の必要条件ではない。
(他にもパターンはあると思うが、これだというものについては、
僕はそこまで研究しきれていない)
なお、メアリースー症候群は、
変化という人生のストーリーも書けない癖に、
高スペックの活躍だけは描きたいという、
幼稚な全能願望の発露であると僕は断ずる。
アマチュアはなに書いてもいいけど、
プロならば不合格だ。
2015年09月04日
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