始点と終点を持つ、ひとつの変化、
ストーリーラインについて考える。
一瞬でその変化が終わる短いストーリーラインは、
短編むきだ。
しかし大抵の長編映画では、
二時間かけて徐々に変化が起こるようになっている。
それは変化の大きさに比例するような気がする。
「気分が落ち込んでいたが、
スイーツを食べたら元気になった」
程度の小さな変化なら15秒CMで描けるだろう。
(本来15秒CMは、こんな変化もありなのか、
という新しいものを切り取る切磋琢磨の場だったのだが、
いつの間にかこの程度の平凡なものしかなくて、
うんざりする)
「マフィアの借金取りで指を折らなきゃいけないような底辺しか仕事がない、
どん詰まりのイタリア人ボクサーが、
世間にこれが俺なんだと自信をもって宣言できるまでの変化」
を描くには、二時間かかる。
(ちなみにこれは「ロッキー」という映画のメインストーリーラインの変化だ)
人生観や内面が180度変わるには、
二時間かかるし、
この劇的な変化こそが、映画ストーリーの醍醐味だといってよい。
この大きな変化を、説得力あり、面白く、
心が動くように作り上げるのが、脚本家の日常である。
ということで、
長くかかる変化のストーリーラインについて以下では考える。
変化の過程は、何段階かに分かれる。
一気に変わることはないだろう。
AからBへの変化をするとき、
間に、別の心の状態、C、D、E…があると思う。
冬が春になるとき、間に何段階あるかを考えよう。
雪に覆われた町が、桜満開に、一夜にしてなる訳ではない。
太陽の光に春の兆しが生まれ、
ふきのとうが顔をだし、
雪が緩みはじめ、
晴れた日が暖かくなり、
雪が溶け、
道が顔をだし、
分厚いコートがいらなくなり、
町が色を取り戻しはじめ、
梅が咲き、鳥が鳴き始め、
梅が散り、
いよいよ暖かい日々が続き、
桜のつぼみがつき、
いつの間にか雪は日陰にしかなく、
しかし三寒四温なので寒い日もあって風邪ひいたり、
春の花が花屋に並び、
桜前線の予報があり、
ある日開花し、
三分咲きや五分咲きが増えてきて、
花見の計画を慌てて立てて、
桜満開の夜が来る。
二時間かけて冬が春になる変化を描くなら、
これぐらいの中間段階はいるかな。
もっと少ないかも知れないし、多いかも知れない。
何ステップ必要か、はいつも答えがない。
自分が出来るステップと、
観客が飽きずに、納得が行き、楽しめるステップとに、
関係していると思う。
長編漫画の引き延ばしを考えよう。
桜のつぼみがついてから、引き延ばしは露骨にされるかも知れない。
あるいは打ちきりを考えよう。
桜のつぼみがついてから、急に満開になって終わるだろう。
つまり、ステップは意図的に、増やしたり減らしたり出来る。
このことが、創作はドキュメントと違うことの根拠だ。
たとえばカレンダー上の中間地点が、
物語上の中間地点に来る必要はない。
3月いっぱいを二時間で描くと仮定すると、
3/15がミッドポイントにならなくてもよいのだ。
ミッドポイントは極端に3/2にも出来るし、
3/29にも出来る。
前者は冬の厳しさをメインにするだろうし、
後者は桜が咲いてからの楽しさをメインにするだろう。
だとすれば、
たとえば前者は、厳しさがあるから嬉しさがある、というテーマになるだろうし、
後者は、浮かれた人々は最高だ、というテーマになるかもしれない。
つまり、
その変化の、何に重心をおくかは、
あなたが決めることである。
ドキュメント(事実)と創作が違うのは、
あなたが何に重心を置き、その代わり何を捨てるか、
つまり何がテーマかによって、
事実をねじ曲げる
(正確に言えば、テーマのために事実を利用する)ことなのである。
テーマは何か?と自問自答するとき、
その変化のどこを主に描くのか?
を決めなければならない。
ロッキーにおいての変化の重点は、
身体を鍛えることよりも、
エイドリアンとの心のやり取りだ。
傷つき、自分はピエロであることを自覚し、
到底勝てない試合にアイデンティティーを見いだすまでの、
心の旅に重点が置かれている。
身体を鍛えることよりも、孤独な心に重点を当てている。
だから、スポーツ映画のふりをした、
青春映画なのである。
(逆にロッキー4では、
心の成長が十分に終わってしまっているため、
物理的肉体改造に重点が置かれている。
つまりロッキーは1だけ青春映画で、
2から4まではスポーツアクション映画だ。
56では人間ドラマに戻るけど)
さて、ターニングポイントだ。
ターニングポイントは、
「今やらなければいけないこと」という焦点を変えるポイントだ。
「状況が変わった」ことを受けて、
行動や物事の軽重を変えなければならなくなるのである。
ところで、変化の軌道のステップの間に、
ターニングポイントが全てある筈だ。
心の状態が、自然にFからGには変わらない。
何かきっかけがあるから変わるのである。
そのきっかけが、ターニングポイントになるのだ。
ターニングポイントは、状況が変わったことで、
やらなければならない焦点を変えるが、
そのことについての気持ちや心境にも変化を及ぼすのだ。
またまたロッキーを例に出せば、
エイドリアンと付き合う前と後では、
ロッキーの心境は違うだろう。
ある種の自信や、孤独から救われる感じになっている。
アポロとの試合を受ける前と後では、
社会的立場が全然違う。
前では無名のイタリア人、
後ではマスコミ注目の何者かだ。
この状況の変化が、周囲の人間関係も変えてしまう。
ポーリーは一儲け企むし、
ロッキーは「自覚が足りないこと」を自覚する。
「俺は誰で、俺はどう見られているのか分からなくなる」のが、
丁度ミッドポイント、エイドリアンとイチャイチャしながら、
自分の出ているニュースを見るシーンがそれだ。
あるいは、ポーリーがテレビを呼んできた事件も、
ロッキーとポーリーの関係に変化を引き起こす。
思わず殴ろうと拳をふりあげ、
エイドリアンが家を出て二人で暮らすまで、
後半で変化の軌道が描かれる。
ある事件、決定、人間関係の変化などは全てターニングポイントだ。
桜のつぼみがつく、ふきのとうが顔を出す、などもターニングポイントだ。
ターニングポイントは、
「これが起きてしまった前と後では、
同じ態度ではいられない」ことを基準にするといい。
不適切な発言、適切な宣言、秘密の露呈、知ること、そういう風に思ってたのか、
人の死、異動、移動、
他の人の何か、自分のしたことの何か、
などは全てターニングポイントになりうる。
そこで大きく流れが変わるのは大きなターニングポイントだし、
小さく流れが変わるのは小さなターニングポイントだ。
たとえば「一回だけ浮気したこと」が、
大きなターニングポイントになるかどうかは、
そのカップル次第だから、
ストーリーライン次第である。
取り返しがつかない大きな罪で、破局に至る大きなターニングポイントにもなれば、
百人浮気して101人目で、気の迷いなのは分かるからアイス奢れ、程度の小さなターニングポイントかも知れない。
それは、変化の軌道の途中の、
何にどう影響するかで相対的に決まる。
ストーリーラインの設計というものは、
始点と終点を決め、
それが何ステップの変化を決めることだ。
自動的に、全ステップ-1個のターニングポイントが必要だということである。
そして当たり前だけど、
ストーリーラインは複数あるから、
どれかのストーリーラインのターニングポイントが、
別のストーリーラインのターニングポイントになることを、
考慮に入れなくてはならない。
例えば仕事を首になることで、彼女も去っていく、
というのは、
よくある複数ストーリーラインの相互作用である。
何回そのような相互作用があるかも、
ストーリー次第としか言いようがない。
一回の場合もあれば、5回、10回もあるかも知れない。
複数のストーリーラインの複数回の相互作用は、
とても複雑な話になることは想像がつく。
脚本史に燦然と輝くコメディ「トッツィー」は、
そのストーリーライン同士の複雑さにおいて傑出している。
おそらくあなたは、これより複雑な話を書くことは出来ない。
(多分、ひとつひとつが薄くなってしまう。
最近の三谷映画のようにだ)
何本のサブプロットが走っているかを数えるだけでクラクラする。
しかも、全てがクライマックスで大爆発するように仕込んである、
完璧なストーリーライン同士の設計だ。
複雑な話というと、どんでん返し(たとえばLAコンフィデンシャル)や、
タイムパラドクスの話を想起するけど、
コメディにおいてストーリーライン同士の複雑な連携が、
ここまで効果的になる例はなかなかない。
二時間映画で、
ストーリーラインはいくつあるか。
単純な話で2、3本。
やや複雑で3〜5本。
といった所だろうか。
それぞれに変化をきちんと数ステップに分けて描き、
それぞれが影響を及ぼしあう形としてだ。
変化の始点と終点、その間の数ステップ。
ひとつのストーリーラインだけでなく、
複数のストーリーライン同士の影響。
それらを設計することがストーリーの設計だと、
僕は最近考えている。
これさえ出来れば、
あとはどこを書いてどこを省略するかを、
三幕構成スタイルに当てはめて尺調整すればいい。
つまり三幕構成は、定規程度の役割しかストーリーに寄与しない、
と僕は考えている。
2015年09月05日
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバック