2015年09月07日

お話作りとは、自分への無茶ぶりである

薄々そうじゃないかと思ってたけど、
多分ほんとにそうじゃないかなあ。


お話とは、問題の解決を描く。

絶対不可能な殺人事件のトリックを暴くとか、
絶体絶命の危機を救うとか、
脱出不可能な要塞から脱走するとか、
誰もが無理だと思う恋を勝ち取るとか、
絶対に勝てそうにない強大な敵を倒すとか。

無理そうに見えれば見えるほど、
それは人の興味をそそる。

一体どうやって解決するのだろう?と。

すぐに解決できそうな問題は、映画にならない。
家の電球が切れたら、コンビニに行けばいいから、
それは普通映画で扱うべき問題ではない。
ところが絶海の孤島でゾンビに襲われ、
真夜中に電球を壊されたら、すぐに解決出来そうではない。
(たいてい、そのあとは松明に頼ることになる。某漫画なら丸太か)

問題は、単品では存在せず、文脈で存在する。
やりちんが女子と喋るのは簡単だが、
モテナイ男には苦行中の苦行だ。

つまり、問題は、いかに主人公が解決するのが困難かを、
最初に示すべきである。


これは、自分自身への無茶ぶりであると言える。
さあ完全犯罪のトリックは作った、
これをドラマチックに破ってみろ、
という無茶ぶりだ。

破りかたを考えないパズルは、
永遠に解けない。

問題を考えることは、ペアとして解決を考えることでもある。


こういう一見解けなさそうな問題はどうだろう、
それをこうやって解決する話はどうだろう、
と思いつくのがベストだ。
それが簡単そうな問題ならば、
解決法を分かりにくくするために、
解決ルート以外をいかにも難しそうにカモフラージュするのである。
難しそうなカモフラージュルートは、
素人が解決法として最初に考えそうなやつがいい。

つまり理想は、
一見解けなさそうな問題で、
素人が思う解決法を選べば選ぶほど、解決は難しく、
誰もが気づかない方法がひとつだけあり、
それならば解決できる、
という形である。

多くの面白い映画は、
そうやって、観客共々、解決法を一緒に考えるのである。


その面白さを作るのは、慣れだ。
そういう良問を作るセンスが、
話作りのセンスだといってもよい。
解法が難しすぎても分かりにくいし、
最初からバレバレでも興ざめだ。
(観客全員が解決法を分かっているのに、
主人公だけが気づかず、観客全員がヤキモキする、
というパターンもある。劇的アイロニーだ。
例えば両思いの話はその典型だろう。
告白しちまえばいいのに、とヤキモキする)

例えば原作デスノートを思い出すといい。
一見不可能に見える月の逮捕に、
Lが迫っていく様は滅茶苦茶面白かった。


今日も僕は自分に無茶ぶりをして、
その鮮やかな解決法を模索する。
脚本家の人生とは、その無限ループである。
posted by おおおかとしひこ at 01:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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