薄々そうじゃないかと思ってたけど、
多分ほんとにそうじゃないかなあ。
お話とは、問題の解決を描く。
絶対不可能な殺人事件のトリックを暴くとか、
絶体絶命の危機を救うとか、
脱出不可能な要塞から脱走するとか、
誰もが無理だと思う恋を勝ち取るとか、
絶対に勝てそうにない強大な敵を倒すとか。
無理そうに見えれば見えるほど、
それは人の興味をそそる。
一体どうやって解決するのだろう?と。
すぐに解決できそうな問題は、映画にならない。
家の電球が切れたら、コンビニに行けばいいから、
それは普通映画で扱うべき問題ではない。
ところが絶海の孤島でゾンビに襲われ、
真夜中に電球を壊されたら、すぐに解決出来そうではない。
(たいてい、そのあとは松明に頼ることになる。某漫画なら丸太か)
問題は、単品では存在せず、文脈で存在する。
やりちんが女子と喋るのは簡単だが、
モテナイ男には苦行中の苦行だ。
つまり、問題は、いかに主人公が解決するのが困難かを、
最初に示すべきである。
これは、自分自身への無茶ぶりであると言える。
さあ完全犯罪のトリックは作った、
これをドラマチックに破ってみろ、
という無茶ぶりだ。
破りかたを考えないパズルは、
永遠に解けない。
問題を考えることは、ペアとして解決を考えることでもある。
こういう一見解けなさそうな問題はどうだろう、
それをこうやって解決する話はどうだろう、
と思いつくのがベストだ。
それが簡単そうな問題ならば、
解決法を分かりにくくするために、
解決ルート以外をいかにも難しそうにカモフラージュするのである。
難しそうなカモフラージュルートは、
素人が解決法として最初に考えそうなやつがいい。
つまり理想は、
一見解けなさそうな問題で、
素人が思う解決法を選べば選ぶほど、解決は難しく、
誰もが気づかない方法がひとつだけあり、
それならば解決できる、
という形である。
多くの面白い映画は、
そうやって、観客共々、解決法を一緒に考えるのである。
その面白さを作るのは、慣れだ。
そういう良問を作るセンスが、
話作りのセンスだといってもよい。
解法が難しすぎても分かりにくいし、
最初からバレバレでも興ざめだ。
(観客全員が解決法を分かっているのに、
主人公だけが気づかず、観客全員がヤキモキする、
というパターンもある。劇的アイロニーだ。
例えば両思いの話はその典型だろう。
告白しちまえばいいのに、とヤキモキする)
例えば原作デスノートを思い出すといい。
一見不可能に見える月の逮捕に、
Lが迫っていく様は滅茶苦茶面白かった。
今日も僕は自分に無茶ぶりをして、
その鮮やかな解決法を模索する。
脚本家の人生とは、その無限ループである。
2015年09月07日
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