この話、続けます。
なぜ一本の傑作が生まれて、しかも続編が生まれるのだろうか。
ターミネーターシリーズを例に出して考えよう。
T1は傑作だが、
実は、その二時間尺よりも、大きなテーマを扱ったのではないか。
「人類滅亡に立ち向かう、対機械軍団の救世主」という物語の枠組みは、
二時間映画にはすこし大きいのではないだろうか。
T1は、それをバックストーリーに置いていて巧みだった。
物語の焦点を、
サラと逃げ切るカイルに絞ったからだ。
ジョン・コナーはあくまで物語中には登場しない、
マクガフィン的な役割だったから面白かったのだ。
(これは「マトリックス」においても同様の構造である。
マシン対救世主の未来は、あくまでマクガフィン的バックストーリーで、
実際にはモーフィアス救出作戦が物語の焦点である)
つまり、
二時間尺には冷酷ロボットとのチェイスだけではもの足りず、
それにはみ出すぐらいのボリュームがマクガフィンに込められていて、
しかも焦点が絞られていたからこそ、
奇跡のバランスでT1は面白かったのである。
T2も実は似た構造だ。
マクガフィンであったジョン・コナーは実在として出る事になってしまった。
代わりにマクガフィンとなったのは、「審判の日」である。
味方にターミネーターが増え、
追って来る者がパワーアップ新キャラになったとしても、
物語の焦点はあくまで単純なチェイスである。
チェイスだけでは二時間に物足りなく、
しかしマクガフィンによる世界設定のスケール感、
つまりテーマの大きさこそが、
T2を二時間以上の何かに見せる事に成功しているのだ。
T1、T2ともに、
二時間尺には大きいテーマを扱っている、
しかし物理的ストーリーは二時間に満たない尺の話、
という構造が、奇跡的なバランスなのである。
この、「一応話は終わったが、少しはみ出している」感覚が、
「まだ全てが語られたわけではない」という感覚を生み、
続編の期待が高まるのである。
我々はまだ、救世主としてのジョン・コナーを見ていない。
我々はまだ、審判の日を見ていない。
(T3のそれは、想像していた審判の日よりしょぼかったよね)
我々はまだ、救世主が活躍してスカイネットが敗北するところを見ていない。
このまだ見ていない想像が、
二時間尺に入らないから、
続編がつくられるのである。
さて、T1、T2の含んだ、すべての設定は、
T5で全て使い果たされたと思う。
つまり、T1と2は、二本で三本分の大きさの話だったのだ。
その感覚で、僕はT5を「完結編」と呼んだ。
全てのテーマを、語り終えたと思ったからだ。
ターミネーターのテーマはなんだろうか。
僕は、「前向きに戦うこと」だと考えている。
T1のラストは、未来に暗雲が起こることを知っていても、
なお勝利を信じて戦いを決意する所で終わっている。
T2のラストは、未来は変わりうるかもしれないことを匂わせる。
ターミネーターが愛(人間らしさ)を学習したからだ。
我々の運命はハイウェイかも知れないが、
そのハイウェイの行き先はまだ見えていない、が結論だ。
そしてこれは、T5のラストにおいて結論が出た。
「The future is not set」でだ。
未来は決まっていない。変える事が出来る。戦う事でだ。
絶望の未来は、変える事が出来る、という結論だ。
僕がT5のラストに拍手喝采を送ったのはここだ。
T1から連綿と続いてきた、絶望の未来への戦う意志を、
ここで終着させたことに、僕は高い評価を送るのだ。
(だから続編T6、7がつくられても、ここまで熱を持てない気がする。
あとは三人の珍道中ものになりさがると思うよ)
映画において、
扱うテーマと尺があっていないことは、問題である。
テーマの方が大きすぎれば、食い足りない話になる。
尺の方が大きすぎれば、退屈な話だ。
テーマと尺は、うまく対応し、釣り合わなければならない。
その心地よい感覚がお話の面白さである。
しかしはみ出たエネルギーが、
奇跡の続編を生んだターミネーターの例があるように、
それは必ずしもおりこうな正解とは限らない。
2015年09月07日
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバック