2015年09月07日

テーマの大きさと尺の釣り合い

この話、続けます。


なぜ一本の傑作が生まれて、しかも続編が生まれるのだろうか。
ターミネーターシリーズを例に出して考えよう。


T1は傑作だが、
実は、その二時間尺よりも、大きなテーマを扱ったのではないか。

「人類滅亡に立ち向かう、対機械軍団の救世主」という物語の枠組みは、
二時間映画にはすこし大きいのではないだろうか。

T1は、それをバックストーリーに置いていて巧みだった。
物語の焦点を、
サラと逃げ切るカイルに絞ったからだ。
ジョン・コナーはあくまで物語中には登場しない、
マクガフィン的な役割だったから面白かったのだ。
(これは「マトリックス」においても同様の構造である。
マシン対救世主の未来は、あくまでマクガフィン的バックストーリーで、
実際にはモーフィアス救出作戦が物語の焦点である)


つまり、
二時間尺には冷酷ロボットとのチェイスだけではもの足りず、
それにはみ出すぐらいのボリュームがマクガフィンに込められていて、
しかも焦点が絞られていたからこそ、
奇跡のバランスでT1は面白かったのである。

T2も実は似た構造だ。
マクガフィンであったジョン・コナーは実在として出る事になってしまった。
代わりにマクガフィンとなったのは、「審判の日」である。
味方にターミネーターが増え、
追って来る者がパワーアップ新キャラになったとしても、
物語の焦点はあくまで単純なチェイスである。

チェイスだけでは二時間に物足りなく、
しかしマクガフィンによる世界設定のスケール感、
つまりテーマの大きさこそが、
T2を二時間以上の何かに見せる事に成功しているのだ。


T1、T2ともに、
二時間尺には大きいテーマを扱っている、
しかし物理的ストーリーは二時間に満たない尺の話、
という構造が、奇跡的なバランスなのである。

この、「一応話は終わったが、少しはみ出している」感覚が、
「まだ全てが語られたわけではない」という感覚を生み、
続編の期待が高まるのである。

我々はまだ、救世主としてのジョン・コナーを見ていない。
我々はまだ、審判の日を見ていない。
(T3のそれは、想像していた審判の日よりしょぼかったよね)
我々はまだ、救世主が活躍してスカイネットが敗北するところを見ていない。

このまだ見ていない想像が、
二時間尺に入らないから、
続編がつくられるのである。


さて、T1、T2の含んだ、すべての設定は、
T5で全て使い果たされたと思う。
つまり、T1と2は、二本で三本分の大きさの話だったのだ。

その感覚で、僕はT5を「完結編」と呼んだ。
全てのテーマを、語り終えたと思ったからだ。


ターミネーターのテーマはなんだろうか。

僕は、「前向きに戦うこと」だと考えている。

T1のラストは、未来に暗雲が起こることを知っていても、
なお勝利を信じて戦いを決意する所で終わっている。

T2のラストは、未来は変わりうるかもしれないことを匂わせる。
ターミネーターが愛(人間らしさ)を学習したからだ。
我々の運命はハイウェイかも知れないが、
そのハイウェイの行き先はまだ見えていない、が結論だ。

そしてこれは、T5のラストにおいて結論が出た。
「The future is not set」でだ。

未来は決まっていない。変える事が出来る。戦う事でだ。
絶望の未来は、変える事が出来る、という結論だ。

僕がT5のラストに拍手喝采を送ったのはここだ。
T1から連綿と続いてきた、絶望の未来への戦う意志を、
ここで終着させたことに、僕は高い評価を送るのだ。

(だから続編T6、7がつくられても、ここまで熱を持てない気がする。
あとは三人の珍道中ものになりさがると思うよ)



映画において、
扱うテーマと尺があっていないことは、問題である。
テーマの方が大きすぎれば、食い足りない話になる。
尺の方が大きすぎれば、退屈な話だ。
テーマと尺は、うまく対応し、釣り合わなければならない。

その心地よい感覚がお話の面白さである。


しかしはみ出たエネルギーが、
奇跡の続編を生んだターミネーターの例があるように、
それは必ずしもおりこうな正解とは限らない。
posted by おおおかとしひこ at 18:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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