2006年、偶然第一話をオンエアで見て、物凄くハマったドラマ。
アネゴと若手の凸凹刑事物と思わせておいての、
どんでん返しの連続。
10年に1本の傑作ドラマだった。
ドラマはね。
10年かかって、何本もスペシャルや映画を経て、
たどり着いたのは、
「パーティーが終わったあとの、オバサンの孤独」だった。
つまりは佐藤某の、メアリースーを見させられたのだ。
僕が女のとても嫌いな部分に、
「色んな男にチヤホヤされる私最高!」
というのがある。
これはとても気持ち悪くて、生理的嫌悪感だ。
「俺がアイドルに囲まれて全裸で風呂に入っている絵」
を想像して、生理的嫌悪感を抱くのと同じである。
アンフェアは、様々な男キャラがわんさかいた。
そしてことごとく雪平を愛し、
肉体関係から父親的存在から、
信頼できる友人から先輩から弟的存在まで、
全てのバラエティーの役割に富んだ男と、
雪平は愛しあった(=気持ちが通じあった)。
しかし、ことごとくその男たちは雪平を裏切り、
ことごとく死んでいった。
女は、バラエティー豊かな男に囲まれて、
ハイテンションなパーティーの主役。
それが気づけば全ての男に裏切られ、
最後には若い男に抱かれることもなく、
信じるという精神的な愛で愛し、
それも終わるというありさま。
パーティーが終わったあとの会場に、
一人残されたオバサン。
それがアンフェアという作品に、
結果的になってしまった。
山路(寺田進)と小久保(阿部サダヲ)は、
もはや肉体関係に発展しそうな男ではなく、
近所の面白いオジサンコンビになっていた。
(だから生き残る)
最後の幼なじみ的な(何でも相談できるが恋には発展しない)
男の、薫ちゃん(加藤雅也)は、死んだ。
(まあ続編があっても生き返らせられるような死に方だったけど)
信頼できる新橋オジサン安村(志賀廣太郎)も死んだ。
父親がわりの一条(佐藤浩市)も、
不細工だけど信頼できる夫(香川照之)も、
若い男(瑛大)も、
憧れの先輩(江口洋介)も、
全部肉体関係を持ち、裏切られ、全部死んでいった。
彼女の動機はビッグファーザーというファザコンで、
女の友達が一人もいない。
唯一の女友達蓮見(濱田マリ)にも裏切られている。
どう考えても、これは脚本監督の佐藤某の反映、
メアリースー症候群である。
佐藤某は、男に裏切られたトラウマがあるのだろうか。
そんなオバサンの孤独しか、伝わってこなかった。
誰かイケメンよ、
そんなことないよ、と彼女の頭をポンポンとやって、
まんこでも舐めてやれ。
誰もそうしてくれない、という甘えた女の幼児が、
みんなが帰ったパーティー会場で取り残されている叫びしか、
感じなかった。
エグザイルのブサ演技とかどうでもいい。
問題は、警察検察裁判所の、
組織がらみの隠蔽工作の全貌である。
佐藤某は、その正義の遂行には何の興味もないのだろう。
巨悪に挑んで巨悪を倒すことに、何の興味もないのだろう。
たとえ父の仇でなかったとしても、
巨悪を倒すことに雪平は興味を持ち、信念を貫けただろうか?
ラスボスとの直接対決が全くなかったことが、
その現れだ。
自分を愛した父親的男と、若い男の面影があり自分を愛しているかも知れない男が、
私を巡って決闘することのほうに、興味があるのだ。
結果的に、国家的陰謀は、最終目標ではなく、
マクガフィンに堕してしまった。
私を愛した男はみんな裏切るから、殺してやると、
孤独なオバサンが全能のメアリースーになっていただけである。
晩節を汚すなかれ。
物語というものは、ラストで価値が決まるのだ。
アンフェアは、ドラマだけなら傑作である。
それ以降は全作糞だ。珍しい現象だ。
2015年09月13日
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