あなたが何かの作品で、猛烈に感動し、
人生を変えるほどの衝撃を受けたとする。
しかし他の人に言っても、それほどでも、と言われたとする。
逆に誰かが猛烈に感動したというのを見てみても、
いやそれほどでも、と思うこともある。
そのことについてどう考えるべきか。
つまり、感動は主観に過ぎないのか。
感動が単なる主観だとしたら、
マス芸術は存在しない。
優れた作品は、多くの人を感動させ、
多くの人の人生を変えるほどの衝撃を与える。
それと、あなたの主観が関係ないだけだ。
人にはそれぞれの主観があり、
それぞれの視点から世界を見ている。
だから他人と違うのは当たり前で、
だから自分が感動しても他人が感動しないものはある。
あなたは、あなたの主観からしか世界を見ていないから間違うのだ。
作品を取り囲む主観の群れを見れるかどうかだ。
あなたが感動しても、沢山の主観たちは感動しないものはあるし、
あなたが感動しなくても、沢山の主観たちが感動するものもあるし、
あなたと沢山の主観たちの感動や退屈が、一致する場合もある。
それだけのことだ。
主観なんだから人それぞれ、と思考停止するのは馬鹿だ。
人それぞれなのだが、
マスに共通点があることを探ることが、
マス芸術を作り上げる者のすることだ。
それが研究の末結果にたどり着いてもいいし、
偶然のシンクロでたどり着いてもいいだけのことである。
大衆に媚びて自分のやりたいことをやれない、
なんて、駄目な書き手である。
大衆が欲しいものを自分が欲しくないのなら、
大衆向けの話なんて書けない。
大衆がダメだと思うなら、その大衆を変えるほどの一撃を作るべきだ。
その大衆を惹き付けて、カタルシスで変化するような。
時代の空気は今なにか。
時代の半歩先の空気は。
そこに興味がないのなら、山に籠って出てこなくていい。
我々は、沢山の主観たちに向けた作品を作るのである。
俺も感動するし、沢山の主観たちも感動するものを、
書くのである。
客観的感動などない。
主観的感動だけがある。
主観的感動たちが存在すると判断する、引いた目線はある。
感動を分かち合えるのは、それぞれの感動を認識できるのは、
我々が群れとして生きる生き物だからだと思う。
2015年09月15日
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