2015年09月15日

主観的感動は、客観的か

あなたが何かの作品で、猛烈に感動し、
人生を変えるほどの衝撃を受けたとする。

しかし他の人に言っても、それほどでも、と言われたとする。
逆に誰かが猛烈に感動したというのを見てみても、
いやそれほどでも、と思うこともある。

そのことについてどう考えるべきか。
つまり、感動は主観に過ぎないのか。


感動が単なる主観だとしたら、
マス芸術は存在しない。
優れた作品は、多くの人を感動させ、
多くの人の人生を変えるほどの衝撃を与える。

それと、あなたの主観が関係ないだけだ。

人にはそれぞれの主観があり、
それぞれの視点から世界を見ている。
だから他人と違うのは当たり前で、
だから自分が感動しても他人が感動しないものはある。


あなたは、あなたの主観からしか世界を見ていないから間違うのだ。
作品を取り囲む主観の群れを見れるかどうかだ。

あなたが感動しても、沢山の主観たちは感動しないものはあるし、
あなたが感動しなくても、沢山の主観たちが感動するものもあるし、
あなたと沢山の主観たちの感動や退屈が、一致する場合もある。

それだけのことだ。

主観なんだから人それぞれ、と思考停止するのは馬鹿だ。
人それぞれなのだが、
マスに共通点があることを探ることが、
マス芸術を作り上げる者のすることだ。

それが研究の末結果にたどり着いてもいいし、
偶然のシンクロでたどり着いてもいいだけのことである。

大衆に媚びて自分のやりたいことをやれない、
なんて、駄目な書き手である。
大衆が欲しいものを自分が欲しくないのなら、
大衆向けの話なんて書けない。
大衆がダメだと思うなら、その大衆を変えるほどの一撃を作るべきだ。
その大衆を惹き付けて、カタルシスで変化するような。


時代の空気は今なにか。
時代の半歩先の空気は。
そこに興味がないのなら、山に籠って出てこなくていい。
我々は、沢山の主観たちに向けた作品を作るのである。
俺も感動するし、沢山の主観たちも感動するものを、
書くのである。

客観的感動などない。
主観的感動だけがある。
主観的感動たちが存在すると判断する、引いた目線はある。

感動を分かち合えるのは、それぞれの感動を認識できるのは、
我々が群れとして生きる生き物だからだと思う。
posted by おおおかとしひこ at 13:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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