工学の研究成果のひとつに「渋滞の理論」というものがある。
僕が数理工学科卒の応用システム工学大学院生だったのはもう20年前だから、
その時の理論から今はだいぶん進化していると思うが、
その時の知識で現実を見てみよう。
何故邦画は死につつあるのか?
今日はボトルネックの話だ。
渋滞の理論とは、
理論的に言うと待ち行列理論という。
元々は、ランダムに発生する客の、
電話回線の最適配分を確率論で解く学問だ。
パレート最適とかナッシュ均衡なんてのは、どこかで聞いたこともあるだろう。
実際には、
複数のエレベーターの制御のアルゴリム設計
(どのくらいのビルに、どのくらいのエレベーターが、
何台必要か、またパフォーマンス最大でコスト最小の、
最適解は)に使われたり、
ネットワーク接続のアルゴリム設計
(複数端末、複数ノード、コストがバラバラなものでの、
最適な基地局の配置やネットワークの繋ぎ方)、
道路計画の設計、高速道路の設計、
道路信号機の制御アルゴリム
(各機が同じタイミングで変わっているのではなく、
それぞれのタイミングをずらしたり間隔を変えることで、
渋滞が発生したりしなかったりする)、
電車のダイヤ編成、
身近な所では、スーパーのレジの配置
(行列が出来ず、尚且つパートのおばちゃんのコストも最小にするには、
何台のレジが最適か?)にも使われる。
(経験が強い場面が現実にはあるけど)
それぞれのレジに並ばずに、一列で並び、
空いたレジに誘導する、という、
銀行窓口のアルゴリムは、この理論による成果のひとつだ。
その方が、ランダムに発生する客と、
ランダム時間がかかる各窓口の処理時間のとき、
各自の待ち時間が最小になるのである。
さて、これらは、一般に、
渋滞がどのように発生するか、
という漠然とした問いに、数学モデル的に答える学問だ。
大抵は、各客の待ち時間を最小にすることと、
コストを最小にすることの両立を理論的最適解の目標にする。
(こういう現実に即した理論は工学の分野だ)
さて。理系の話をここまでしたのは、
渋滞の理論にある、ボトルネックの話をしたいからだ。
コーラの瓶をイメージしたまえ。
あれは女の体を模している。
ボン、キュッ、ボンだ。
キュッとなってるウエストはセクシーであり、
尚且つ手で持ちやすい機能性を持つ。
コーラ瓶に限らず、持ちやすい瓶には、
必ず細いところがある。(逆に、直線の瓶は持ちにくい)
この細くなっているところをボトルネックという。
高速道路の渋滞は何故起こるのか。
一番前でトロトロ走っていて、後続が渋滞する訳ではない。
(田舎の一本道だとたまにあるけど)
車線が狭くなったり、カーブや登りで、
処理の平均速度が落ちる箇所があって、
そこで渋滞が起きるのだ。
それを、渋滞のボトルネックという。
水道管にたとえれば、せっかく太いパイプなのに、
一部が細くなっているため、
その細さでしか、それ以降には細い水しか流れない、
というのがイメージしやすい。
交通の流れ、客の流れ、水流の流れ、電流の流れ、
ついでに金の流れ、全てについて、
同じ数式で議論出来るのが、渋滞の理論である。
(この流れをフローという。キャッシュフローとか、
経済学にも使われやすい理論だね)
渋滞の解消とは、回線の太さに対するボトルネックの発見と、
それを取り除き、回線本来のスペックを取り戻すことだ。
ここでようやく脚本の話になる。
何故邦画は詰まらないのか?
脚本力が低いからか?
個々の脚本家の力が弱いこともあるし、層が薄いこともある。
しかし、それ以上に問題があるのは、
脚本を受け取り、ビジネス化する有象無象の人達だと思う。
彼らの脚本に対する理解が、浅すぎる。
国語の試験で満点取れる人ばかりではないからである。
質のバラツキは、ランダムに発生する交通量と同じで、
予測が難しい。
毎回同じメンバーなら予測可能だが、
映画一本のたびにチームは編成され、毎度解散する。
プロデューサー達、製作総指揮、投資チームが、
毎回変わるため、これはランダムな交通量と同じである。
さて、そうすると渋滞が起きる。
ボトルネック、つまり、一人バカが入ると、
「その人が理解できる範囲」に、脚本を直せという指示が出る。
その理解レベルが低ければ低いほど、
その範囲内に脚本を直さなければならない。
たとえ白鳥のジュンがスーパー良く書いてあったとしても、
うちの○○用に書き直してくれ、と言われたら、
そこのレベルを落とす。
ここが良くわからないから、分かりやすく書き直してくれ、とレベルを落とす。
(今でも「いけちゃんとぼく」の冒頭部に海の墓場のシーンを入れたのは、
間違いだと思っている。しかし脚本段階で、角川の殆どのプロデューサーが、
このシーンがないといけちゃんの正体が分からない、と言った、
理解力のない人達だった)
途中で予算が一億消えて、
いけちゃんの登場シーンを半分にしろと言われる。
(単に削らず、他をきちんと書き直すべきだったのに、
僕にはその実力がなかった。映画前半のいじめシーンには、
いけちゃんが常にいたのだが、単に削ったため凄惨なシーンになってしまった。
しかもそれはコンテを1000カット描いたあと、
一週間で直せといわれた)
こうして、いくつものボトルネックに遭遇して、
脚本のレベルを、落とさざるを得なくなる。
こうして、面白かったはずの脚本が詰まらなくなってゆく。
分かりやすい小さな例。
「いけちゃんとぼく」で言えば、
不良になったあとのみさこさんが、
タバコを普段吸っているから野球で走るのは息が切れる、
というのがあったが、
未成年にタバコを吸わせるな、
といういらぬ指示で、禁煙パイポをくわえさせられる羽目になった。
ついでに、付き合ったバカ男、という設定なのに、
交通法規上シートベルトだけは締めろと言われたが、
そういうのを守らないバカという表現(だから事故る)
をするために、最初の登場シーンは、私道であるから、
公道の交通法規を守ってなくてよい場面だから、
シートベルトをしていない、
という言い訳を考えなければ、
撮影にゴーサインが出ない。
こんなものは可愛いボトルネック(レベル1)だが、
もっともっと、恐るべきボトルネックが潜む。
(いけちゃんの冒頭シーンの失敗はレベル99)
それは、不特定多数の人間が、脚本に口を出すからである。
特に、今多くの人のチェックが入るCMでは、
このボトルネックがありすぎて、
一般人が喜ぶ脚本レベルを大きく下回っている。
何億もかけて、渋滞しまくった下らない内容しか作っていない。
それはテレビを3時間もつけていれば分かることだ。
80年代、90年代に流行語大賞を生み出し、
時代の牽引役だったCMは、今どこにもない。
原因はたったひとつだ。
脚本に口出すやつらのレベルの低下と、
数が増えたことによるボトルネックの多さだ。
今やっているCM作品は、撮影前にしてもう面白くなる要素がなくなった。
あとは降りるか、目をつぶって撮影して編集するしかない。
降りたら二度と呼ばれないクラスの業界追放(金のかかったプロジェクトの為)、
上がりがダメなら大岡は才能がなくなった、
このどちらかだ。
まあ、業界の息がつまる事情はみんな知ってるから、
内輪にはある程度は許されるかも知れないが。
(こうして佐野サロンが出来上がるんだね)
さて。
CMは目をつぶってやれば一ヶ月で終わる。やりすてでもいい。
映画は半年から一年で、名前が残る。
今、邦画が詰まらなくなっているのは、
脚本家の才能のせいも勿論あるけど、
脚本を(無自覚に)潰す奴らがたくさんいて、
しかもボトルネックになるやつがいて、
そいつのレベルが恐ろしく低いことである。
渋滞は、ボトルネックで起こる。
たとえもっと早く走れる設計の道路でも、
ボトルネックのスピードに落としたら、
それ以降はずっとそのスピード以下になる。
ボトルネックは一個ではない。複数のチェックが複数のボトルネックを呼んでいる。
僕はこの現象を、
最大公約数にしかならない、と呼んでいる。
100のスペックがあった脚本が、
20や10になってしまうのは、
そういう力が働いているからだ。
(そもそも20の脚本が提出されているかどうかは、
僕は知ることは出来ない。
だが、いけちゃんとぼくでは、100の脚本が60ぐらいに、
風魔では130の脚本が125ぐらいに、
今やっているCMでは、120の脚本が1ぐらいにされている)
そして最大の問題は、
脚本を書いた僕が、その修正を要求している人と会えないシステムだ。
直接会えば事情を聞いて第三の解決策を出せるが、
どの仕組みでも直せの指示は複数の人経由になる。
間に立っている人は何のためにいるのか?
脚本を守るためにいるとでも?
あんたたちが、脚本のレベルを下げてるのに、自覚してないだろ?
これらを公開して、業界の問題として吊し上げたいのだが、
まあ追放になるだろうから、
誰もやらないのだろうね。
第一稿が良かったなら、そのまま作ればいいのに。
それがどんどんダメになっていくのが、
今のものづくりの現場だ。
システムの問題と、
誰もシステムの欠陥に気づかず、
誰も警鐘を鳴らしていないのが、
二重に問題だ。
多分それを俯瞰的に眺めているのは、当の脚本家だけじゃないか?
複数が責任を持つということは、
その全メンバーのボトルネックに合わせなければならないということ。
民主主義の結果は、
手間をかけたわりに無難な学級会の結論と同じということ。
独創的で時代を変えるもの
(それは物議を醸す)を、複数の責任で守れないということ。
その角が削られ、ボトルネックに合わせて丸められるということ。
しかもその複数が、全員で脚本はどうあるべきか、
時代にたいしてどう立ち向かうべきか、
全員で会って議論せず、
一丸になっていないこと。
俺はそうするべきだとずっと言ってるのに、
いつまでたっても間に人が何層もいること。
組織の問題といってもいい。
誰も組織の全体を知らないまま、自分の範囲しか見ていない。
そういうことが、少なくとも日本のCMと邦画で起こっている。
(多分、人数とレイヤーの多い大企業ほどそうだろう)
結論としては、
僕はそれが嫌になりつつあって、
一人で責任の取れる、小説にトライしている。
才能はない。あるのは物語勘ぐらいだ。
ということで、てんぐ探偵が面白かったら、いいねとかしてください。
2015年09月17日
この記事へのトラックバック
これは、脚本の問題だけではなく様々な分野でも起こってそうな問題ですね。
刺身にタンポポ乗っける仕事とかは大人数の方がいいと思いますが、もの作りは少数精鋭のほうがいいと僕も感じます。
理想は間のよくわからない人がよくわかるように勉強するか、その時間がないなら作業者に任せて上を説得してもらうか…どちらも受動的ですね。
僕もこの問題を何とかしたいと思っていて、自分からできることはなにか?を模索しております。
まあ、最初から大人数に身をおかない方が手っ取り早いかもしれませんが…
長文失礼しました。
ブログ毎回楽しみにさせて頂いております。
広告の世界では、昔から「伝言ゲーム」という揶揄があります。
で、厄介なことに、「メールの文章なら誤って伝わることがない」と考えるバカが、
ニュアンスの落ちたメールを一日何件もccつけて絨毯爆撃してますね。
「『私はものごとの本質を理解していない』と理解すること」
は、謙虚な人以外には、不可能ではないかと思います。
伝言ゲームを笑うためには、
伝言している人たちの外から全てを眺める視点のみです。
実はそれこそが観客で、
それを誰も理解していないというね。
このへんをうまく妖怪化して、ズバリと退治したいのですが、
辺境で吠えるのが関の山。
自分で会社起こすしかないのかなあ。
(俺経営に向いてないしねえ)