2015年09月20日

人は、答えが欲しい

人は何故、あの人は私が好きなの?と問うのか。
人は何故、政治に文句を言うのか。
人は何故、宇宙を見るのか。

答えが欲しいからではないかと思う。

人は問う生き物だ。
何故問うのか。答えが欲しいからだ。
答えがわかると、人は快感を感じるように出来ているのではないか?
だからここまで科学や文明は進化したのではないか。

人は何故物語が好きなのか。
そこに、答えがあるからではないかと、僕は考える。


優れた物語は、我々に答えを提示する。
その為に問題を与える。
この困難な状況は、解決するのか?
というセンタークエスチョンだ。

それはハッピーエンド形式の普通の物語なら、
必ず解決して終わる。
我々は殆ど、解決すると分かっている物語を、
見て楽しむのである。
解決しないなんてもはやブーイング対象だ。
(若いときはバッドエンドやビターエンドが、
カッコイイと思って暴走するものだ。
「俺たちに明日はない」「イージーライダー」、
「気狂いピエロ」「タクシードライバー」などのニューシネマはそういうアンチテーゼ運動を兼ねていた。
しかし時代が下って、ただバッドエンドを露悪的に見せる愚作も増えた。
「マルホランドドライブ」「エヴァンゲリオン」「レクイエムフォードリーム」
などはそれらの代表だ。
バッドエンドは、一種の答えを出す。
人は幸せになかなかなれない、という種類の答えだ。
ちなみに未完という終わりかたもある。
「ゾディアック」「殺人の追憶」「宇宙戦士バルディオス」などだ。
これがいかに不快かは、自らの目で確認すべし)

しかしそれは外的な問いだ。
自ら仕掛けた困難な状況を解決するという、
いわばマッチポンプが映画である。

映画は、それだけでは面白くない。
困難すぎる状況の劇的解決という、
パズルを解く面白さは、所詮映画の外的な、
表面的な面白さだ。

(てんぐ探偵の外的な面白さは、単なる妖怪退治である。
てんぐ探偵の本当の面白さは、勿論外的な面白さにはない。
人がいかに心の闇から立ち直るのか、という、
内的問題解決の面白さなのだ)


映画は、外的問題の解決と平行して、
内的問題の解決を扱う。

これが答えを出すから映画は面白いのである。
それは、人生にある知見をもたらすものである。


ロッキーならば、
「何かを達成すれば、人は堂々と出来る」だし、
ドラマ風魔ならば、
「人の心に踏み込んで人を変えていくやり方は尊い」だろう。

それが外的問題の解決
(ロッキーならば、アポロ戦を最後まで立っていたこと、
風魔ならば、夜叉壊滅)
によって、
暗示されることが、映画的な表現である。

これはテーマと一致することもあるし、
それをさらに越えた知見のこともある。


つまりこれが、テーマとは作者の主張だ、
と簡単に誤解される所以だ。


別に主張するわけではないのだが、
答えが出るから、
人はそれに安心し、快感を覚え、その効果を作者の主張だと思うのである。

地動説は観察結果を合理的に示すが、
それはガリレオの宗教的主張ではない。
神はいるが、地球は動いている、という主張だって出来た筈だ。

作品の結論と、作者の主張は、本来別であることを、
必ず心にとどめておくことだ。

まあ、実際には重なりあうものだけれどね。




あなたは、物語を書こうと思うのなら、
それがどんな答えを出す物語なのか、
意識したほうがよい。

いじめよくないとか、差別反対とか、
知ってるわ、という答えは、人はあまり必要としない。
いじめは同質で安心したい恐怖心が生み出す共同作業である、
などという答えなら、まあまあ新しい知見であるから、
そういう答えを出されると、
人は安心したり、快感を感じたり、
へえそうなのかと得心したり、
たしかにその通りだと我が意を得たりする。
ちなみにこれはてんぐ探偵の妖怪「なかまはずれ」の答えだ。


さて。

何故人は物語を見るのか。
気になる内的問いを出されて、それへの答えが欲しいからである。

地球は宇宙人によって滅亡するのか?とか、
学園は敵対学校によって潰されるのか?とか、
世界戦に勝ってヘビー級チャンピオンになるのか?とかの、
外的な問いは、
実はどうでもいいのである。
だってハッピーエンドになるのは無条件の前提だし。

それよりも、
「自尊心の失われた、引退を考える男は、
どう人生に向き合って自尊心を取り戻すのか?」という問いに、
答えが欲しいのである。
「それには、何かを本気でなすことだ」という、
答えを得て、人は満足するのである。

だから、ロッキーの真似をして卵を飲んだり、
朝走ったり、階段をかけ上がりたくなるのである。
人が夢中になるのは、
その真似をすれは、自分の自尊心に関しても、
答えが出るのではないかと錯覚するからである。

その錯覚が、物語を見る理由だ。
(錯覚だから本当にならないとも限らない。
ロッキーのことを思い出すだけで自尊心を取り戻し、
人生の困難を突破した人は沢山いるだろう。
僕もその一人である)



あなたは、
あなたの書く物語で、どのような答えを出すのか?

それは、結果的に、世の中に対する主張とみなされる。
若者がなかなか物語を書けないのは、
人々の心の芯を食うような、
一般的な答えを出せないからだ。
30を越え、40を迎える頃には、
何かしら、人生や社会や歴史などに一定の知見をもち、
それが価値あることとして、答えという形になるかも知れない。


あなたは、いくつ、世界に対して答えを出せるのか?

それが多いほど、沢山の話が書ける可能性がある。


テクニックよりも何よりも、
そのオリジナリティーと、
その答えに人が夢中になるか、
という部分が、
本質的なのではないかなあ。


人は物語に答えを求めている。
なのに、俺ツエーばっか出てきて、
一向に答えなど出そうとしないから、
今の邦画は愚図愚図なのではないかと思う。



僕は夢中になったドラマアンフェアを追いかけ、
シリーズ最終作「アンフェアthe end」に、
「父を殺した真犯人は誰か?」「闇組織の全貌、それは一掃されるのか?」
という外的問題の完全解決と、
「アンフェアなのは誰か?そもそもフェアとは?」
という、内的な答えを求めた。

それに対して、「一条犯人」しか答えがなかった。
外的問題については部分解しかなく、
内的問題については、問いもせず答えもなかった。
だから僕は、怒っているのである。



あなたは、世の中にどんな答えを出すのか?
若いうちは失敗するだろう。
年を取りすぎても失敗するだろう。

世の中に答えが出せるときが、
物語を書くべき時である。


今、新しい物語が生まれにくい理由は、
ネット時代になって、
人は様々な答えを、いっぺんに知ってしまったからではないか、
と思うようになった。
これだけ答えが先にシェアされている社会は、
人類誕生以来初めてではないか。

あなたはこの時代に、全ての答えよりも、
さらに新しい答えを出さなければならない。
posted by おおおかとしひこ at 17:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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