2015年09月20日

モジュール脚本論4: 大局的文脈

三幕理論の罪は、
第一幕に「設定」という名前を与えてしまったことだ。

実際には、ある焦点がはじまって、
ターニングポイントで次にうつり、
その繰り返しをしているうちに、
様々な状況が揃ってきて、
第一ターニングポイントが起こるだけのことなのに。


第一幕が設定であるのは、
三幕を俯瞰したときに、
色々なことが起こる第一幕は、
全体から見れば、全体の設定を主に担っている、
という命名に過ぎない。

我々が第一幕を書くとき、
よし、設定するぞ、と思ってはならない。

興味深い助走から推進力が生まれ、
面白いターニングポイントがあり、
以下それを夢中で追っている、
ということを書かなければならないのである。

それが、俯瞰的に見れば全体の設定をしている、
というだけだ。


これは、第二幕「展開」、第三幕「解決」についても同様だ。

大きなモジュールに名前(劇的文脈)をつけるのは、
その階層での役割分担に過ぎず、
さらに下の階層のモジュールを書くときは、
その階層での劇的文脈が必要なのだ。

小次郎初登場シーンという劇的文脈の階層を、
スローで走ってくる、
「どこだどこだ」がドップラー効果を起こす、
一瞬で通りすぎた後に風が吹く、
蘭子がそれにハッとして「風?」と振り向く、
これらのモジュールを組み合わせて作るのである。

恐らくだけど、
人は執筆中、ひとつ上の階層を意識するので精一杯だ。

大きくはさらに上の階層を意識することも可能だけど、
常には無理だろう。


理屈の上では、
一番上の階層を決め、次の階層を決め…とやって、
最も下の階層のひとつ上まで決め、
一番下の階層、すなわち台詞やト書きを書いて行くのが、
本来の意味での「設計」であるような気がする。

しかしプロはそうやって書かない。
人は、そのような理屈で生きていないからだ。

人が生き生きするさまは、
モジュールの階層構造では書けない。
もっと砂かぶりの、ぎりぎりの場所で、
その人の感情になりきることで書かれる。

全てを計画してしまっては、人の感情が死ぬ。
感情に従って勢いよく書いても、計画性がなく挫折する。

どちらでもない、その間に書き方の正解がある。
その案配は人によるし、ストーリーによるとしか答えられない。

推理小説などは相当綿密に計画性がいるだろうし、
恋愛やコメディはその場のノリが計画をいかにぶち壊すかだ。


とても詳細に詰めるプロもいるし、プロットを書かないプロもいる。
その人なりの最適なバランスに、その人はたどり着いたのだろう。


僕が13ポイント理論をあまり勧めないのは、
事前に複雑に決めすぎるからだ。
あそこまでがんじがらめだと、生き生きしたキャラが僕には書けない。
まあ、あれがしっくり来る人もいるかもだけど。



あなたも観客も、
今目の前で起きている、
最も下の階層のモジュール、
すなわち台詞やト書きを見ている。

それが複数の階層の文脈に乗っ取った部分であるのは、
ちょいちょい意識にのぼる程度だろう。

その程度の認識で、
各モジュールを考えていくとよい。

勿論、リライトの際には、
全ての階層の全てのモジュールの劇的文脈を明らかにし、
構成を再考する必要があるのだが。
posted by おおおかとしひこ at 18:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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