三幕理論の罪は、
第一幕に「設定」という名前を与えてしまったことだ。
実際には、ある焦点がはじまって、
ターニングポイントで次にうつり、
その繰り返しをしているうちに、
様々な状況が揃ってきて、
第一ターニングポイントが起こるだけのことなのに。
第一幕が設定であるのは、
三幕を俯瞰したときに、
色々なことが起こる第一幕は、
全体から見れば、全体の設定を主に担っている、
という命名に過ぎない。
我々が第一幕を書くとき、
よし、設定するぞ、と思ってはならない。
興味深い助走から推進力が生まれ、
面白いターニングポイントがあり、
以下それを夢中で追っている、
ということを書かなければならないのである。
それが、俯瞰的に見れば全体の設定をしている、
というだけだ。
これは、第二幕「展開」、第三幕「解決」についても同様だ。
大きなモジュールに名前(劇的文脈)をつけるのは、
その階層での役割分担に過ぎず、
さらに下の階層のモジュールを書くときは、
その階層での劇的文脈が必要なのだ。
小次郎初登場シーンという劇的文脈の階層を、
スローで走ってくる、
「どこだどこだ」がドップラー効果を起こす、
一瞬で通りすぎた後に風が吹く、
蘭子がそれにハッとして「風?」と振り向く、
これらのモジュールを組み合わせて作るのである。
恐らくだけど、
人は執筆中、ひとつ上の階層を意識するので精一杯だ。
大きくはさらに上の階層を意識することも可能だけど、
常には無理だろう。
理屈の上では、
一番上の階層を決め、次の階層を決め…とやって、
最も下の階層のひとつ上まで決め、
一番下の階層、すなわち台詞やト書きを書いて行くのが、
本来の意味での「設計」であるような気がする。
しかしプロはそうやって書かない。
人は、そのような理屈で生きていないからだ。
人が生き生きするさまは、
モジュールの階層構造では書けない。
もっと砂かぶりの、ぎりぎりの場所で、
その人の感情になりきることで書かれる。
全てを計画してしまっては、人の感情が死ぬ。
感情に従って勢いよく書いても、計画性がなく挫折する。
どちらでもない、その間に書き方の正解がある。
その案配は人によるし、ストーリーによるとしか答えられない。
推理小説などは相当綿密に計画性がいるだろうし、
恋愛やコメディはその場のノリが計画をいかにぶち壊すかだ。
とても詳細に詰めるプロもいるし、プロットを書かないプロもいる。
その人なりの最適なバランスに、その人はたどり着いたのだろう。
僕が13ポイント理論をあまり勧めないのは、
事前に複雑に決めすぎるからだ。
あそこまでがんじがらめだと、生き生きしたキャラが僕には書けない。
まあ、あれがしっくり来る人もいるかもだけど。
あなたも観客も、
今目の前で起きている、
最も下の階層のモジュール、
すなわち台詞やト書きを見ている。
それが複数の階層の文脈に乗っ取った部分であるのは、
ちょいちょい意識にのぼる程度だろう。
その程度の認識で、
各モジュールを考えていくとよい。
勿論、リライトの際には、
全ての階層の全てのモジュールの劇的文脈を明らかにし、
構成を再考する必要があるのだが。
2015年09月20日
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