2015年09月21日

進撃の巨人後編、たぶん見ないが糞。

Yahoo!レビューの人、ありがとう。
ネタバレであらすじを書いてくれてる人がいた。
俺の1800円を興行収入に入れてたまるか!

ということで、それを信用する限り、
エレン(幼児性全能感)、シキシマ(中ニ的全能感)の、
二人のメアリースーが暴れるのだそうな。
「サンダ対ガイラ」という噂を聞いていて、
エレンvsシキシマになることはなんとなく察せられたが。

しかしそれがどちらもメアリースーだとは。


メアリースーについては、何度もここで糾弾している。
それは、アマチュアがプロになれない境界線のようなものだ。

メアリースー的主人公を書いて自己投影し、
悦に入るのがアマチュア。
こんなんメアリースーやんけあほかいな、
と自分とは全く関係ない他人の主人公を書くのがプロ。


自分が可愛いがゆえに、
主人公を全能にして、何もしないくせに、なぜか全員から敬われたり慕われたりすること。
つまり、自分から見た自分を主人公にしてしまい、
他人から見た他人を主人公に出来ないこと。
これがメアリースーだ。客観性のない幼児である。

これが一人称小説ならば「傍観者の私」でありえたものが、
三人称がゆえに、
しわしわちんぽ丸出しのキモヲタがそのへんでブヒブヒ言ってる
(俺最強!俺なにもせずにヒロインにモテモテ!なにもしないのにみんなに大人気!)
に過ぎないこと。

たとえば谷川が大巨人セームシュルトに自己投影して、
空手最強とか言って、K-1がつまらなくなったようなことだ。
幼児の全能感は、はたから見るとそういうことだ。

つまりアマチュアは、はたから見る能力がないのである。

三人称形では、人物に目的がなければならない。
他人が他人の焦点を追う形式だからだ。
一人称では、目的がなくても話がすすむ。だってぼくちん人生の目的なんてないもん。


なぜか巨人化して最強で、
なぜかコミュ障なのにヒロインに構われるエレン。(目的なし)
なぜかヒロインに好かれ、なぜか中ニ的全能感にあふれ、
なぜか巨人化してエレンと闘うシキシマ。(目的なし)

この二人が主要キャラかつオリジナルキャラかつ、
ヒロインを真ん中にした三角関係である以上、
この二人は、作者(町山、渡辺、樋口の三糞トライアングル)の、
メアリースーである。


ナカテツは降りて正解だ。
日本の業界では、何故か降板を申し入れると追放される。
ナカテツは二度と東宝系列でメガホンをとることはないかも知れない。

それでもこの糞物件に触れなかっただけ賢い。
(まあ、ナカテツなら、すごい面白いのを作ったかも知れないが)



巨人の正体も、馬鹿らしすぎる。

ウルトラQの傑作「1/8計画」とか、見たことないのだろうか。
(ブラックジャックの「縮む!」も大体同じ話)
あるいは「ミスト」とか、見たことないのだろうか。
あるいはそもそも「猿の惑星」とか、見たことないのだろうか。
あるいは漫画「ナウシカ」の結末を知らないのだろうか。
あるいは「ダークシティ」や「マトリックス」や60年代SFの、
国家的陰謀ものを見たことないのだろうか。なんなら「THX-1138」でもいいぜ。


巨人と小さな人は、テーマの象徴でなければならないはずなのに。
原作では、「人間だと思われる方が小人ではないのか」などと噂されているそうな。
それなら「1/8計画」か、原作「ナウシカ」と同じ話になるね。


原作より先に結末をつけなければならない段階で、
映画はある種の覚悟をしなければならない。

1. 原作に先んじて衝撃の結論を出す
2. 原作の結論を待つ為に、曖昧な結論にせざるを得ない
3. 原作よりはしょぼいであろう、オリジナルの結論を用意する

どれかしかないのだ。

僕は、1を選ぶべきだと思う。
「うる星やつら2ビューティフルドリーマー」が、
原作に先んじて、原作の結論を出してしまったように。


原作者と脚本家は、対等に勝負するべきだ。
その意味で、原作の映画化は、原作者より実力が上の脚本家を使うべきなのだ。
パラドクスみたいだけど。
三バカは、対等に勝負出来ない程度の糞才能で3を出したようだ。


東宝さんよ、乾坤一擲のゴジラ大丈夫?
日本映画の至宝を食いつぶされるよ?
posted by おおおかとしひこ at 22:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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