2015年09月22日

三幕を書くときに大事なこと

派手な花火を打ち上げること、
それがテーマを示すこと、だ。


派手な花火を打ち上げることは、
言うまでもないだろう。

クライマックスは、その映画のなかで一番面白くならなければならない。
最大の危険。最大の規模。最大の深さ。
シャドウとの直接対決を制する、
というパターンが多い。
この場合のシャドウとは、単純に敵のこともあるし、
主人公の内なる弱さのこともある。

さて、クライマックスを派手にするということに反対する人はいないだろう。
敢えて地味なクライマックスにするひねくれものだとしても、
それが、
意味的に、最大の危険、規模、深さであることに変わりはないはずだ。


しかし、ただの空騒ぎではなんの意味もない。

一番大切なことは、
ここでテーマが確定することだ。



テーマの確定と聞いて、
自分の主張を演説するのは五流だ。
(例:糞キャシャーン、糞進撃の巨人後編)
「AはBである」という言葉を一切使わずに、
出来れば絵だけで分かるように示すのが、
一流のやり方だ。

さて、クライマックスを書く前に、
自分に問わなければならない。
「俺は一体何のテーマを書いているのか?」をだ。

実は、テーマを最初に決める人はそんなにいない。
○○付近のことを書こうとか、
○○に興味がある、程度だ。
あるいは最初決めていても、
書いてるうちに、全然違うテーマ(大抵は、大きくはその範囲だがより細かくなる)に、
収束していることも多い。

そこで、クライマックスの前に落ち着いて考えるのだ。
この話のテーマは何か?と。

思い描く花火の結末については、
概ね想像が出来ている筈だ。
だとして、果たしてそれがどんなテーマを言ったことになるか、
を考えるのだ。

主人公の勝利が、
○○という価値が××という価値よりも素晴らしいことを暗示する、
というのはよくあるパターンだ。
主人公が○○の価値を代表していて、
シャドウが××の価値を代表していればよい。
(極端には××だけがあって、not ××が主人公の価値になるかもだが)

たとえば、
「あくせく働かんと、のんびり暮らせばええんやで」
などは沖縄など南国を舞台にした映画によくあるテーマであり、
人は沖縄映画を観るとき、それを期待するものだ。
(それも画一的な沖縄観に過ぎないから、
そろそろ沖縄にもいろいろあるけど、という映画を見たいけど)
だとするなら、敵は都会からやって来た開発軍だろうね。
それが何らかのクライマックスで敗れたら、
沖縄的価値観の勝利を暗示することになる。


あなたは、どんなテーマを書くのか。
あなたの主張は何か。正確には、「この話での」主張は何か。
作品が主張しようとしていることは何か。

出来れば、これらはひとつのものに収束するべきだ。
これらがぶれていると、
作品がぶれてしまうだろう。

あなたの主張を、作品が主張しているのか?

例えば巨人と人間は、何を暗示(象徴)しているのか?
エレンとシキシマは巨人化して主張しながら殴りあうらしいのだが、
じゃあ巨人と人間の世界でやる必然性があるのか?
ないだろう。
だって作者の主張は、自己承認欲求「俺ツエーヒロイン返せー」
だからだ。
アニメ製作現場での三角関係のドラマと同じテーマだ。
どんな高尚なことを言っても、ヒロインという果実を得る絵が、
無意識に語っている。
自己承認欲求が主張であることを。


その作品特有のモチーフ、
その作品特有のストーリーライン(目的とターニングポイントの軌跡)、
その作品特有の展開が暗に示すことを、
台無しにしないように、
あなたは、
この作品が暗示しようとしていることを、
一端言葉にしなくてはならない。

それはあなたの無意識のどこかにある。
俺は一体何を書いているのか?を問うことで、
それを意識に上らせるのである。

当初の計画と狂うのはほぼ100%だ。
何故なら、計画を立てているときはまだ書いてなかったからだ。
この意味で、最初に立てるテーマなんて、
仮テーマに過ぎない絵にかいた餅だ。


第二ターニングポイントあたりで、
あなたは自分が一体何を書いているのか、
伏線や登場人物やストーリーラインの中ではなく、
一端作品の外に出て、
全体を見つめなければならない。
出来れば世の中の動向も見渡して、
このテーマが世の中に価値を持つかも考えなければならない。

(たとえば共産主義は、現代にテーマとしてありうるか?
レーニンスターリンの共産主義と、マルクスの原理的共産主義は違う。
社会主義という名の独裁主義ではなく、
財産共有の原始共産主義なら、
この金融一辺倒社会への意味合いとしてあるかもだ。
どっかでそういう社会、ベース生活費を一定支給の実験やってたよね。
問題は仕組みの完全移行でなく、重なりあって存在できるかどうかだろうけど)



難しいテーマか?
簡単なテーマか?
共感性の高いテーマか?低いテーマか?
作品を見れば腑に落ちるテーマか?腑に落ちないテーマか?
グッと来るテーマか?胸糞テーマか?
耳が痛いテーマか?心に染みるテーマか?
勇気が湧いてくるテーマか?世界を良くするテーマか?
あなただけが主張していることか?
単に耳に心地よいだけか?
納得は行くのか?
一生忘れないテーマか?明日には忘れてるテーマか?
似た、もっと洗練されているテーマは他にあるか?
シンプルに言い換えられるか?別の表現方法はあり得るか?
同じコンセプトの諺は既にないか?


そんなことをゆっくり考え、
固めてから、三幕を書きはじめるといいだろう。
書きながら考えてはダメだ。必ず失敗する。
覚悟を決めるまで、書きはじめないこと。

何かを書くということは、
世の中にこれが自分だと示す覚悟をすることだ。

それは若ければ若いほど尖っていて、
だからこそ世の中に強烈に刺さり、
だからこそ波紋を呼ぶ。
場合によっては炎上だ。
それが、主張するということだ。

そのテーマにみんな感じ入り、そうだと思えば、
深い味方になってくれる。
たとえ大炎上していても。
それは、深く深くに刺さるから、意味がある。

ベテランは嫌われないようにオブラートのくるみ方が上手いけど、
中は若手より尖っている。

それが表現というものだ。


最近の広告は表現でも何でもない。
嫌われるリスクだけを減らした八方美人で、
浅い所にしか届かない、ペラッペラの主張である。
だからその企業は、誰からも本当に好かれない。
ちょっと主張しようものなら、メアリースーが顔を出すみっともなさ。

広告の糞の連鎖に、映画も巻き込んではならない。

あなたは、素晴らしいテーマを書き、
世の中に楔を打たなければならない。

その楔にどんなものを選び、
どのように表現するかが、
本当は一番大事なことなのだが、
それは表現塾で教えてくれることなのかなあ。

今受けるテーマは、研究すれば集められる。
しかし本当の新しくていいテーマは、
あなたの人生から捻り出すしかないと思うよ。



ちなみに、てんぐ探偵の、
「闇にかざすのは、炎だ」というテーマにたどり着いたのは、
ミッドポイントあたりである。
それまでに執筆だけで半年、構想も含めれば一年半かかった。
テーマは、それぐらい練る覚悟と引き換えだ。
(三幕にあたるのは、第十一集である。
第二ターニングポイントは、逆算して十集のラスト「孤高の人」だけど、
その前のボトムポイント「闇の名前」あたりから、
ずっと連綿と続く流れだ。
それは九集ラスト「妖怪盆踊り」あたりから意識されていたことで、
このテーマに向かって全てが揃うように、
意識して書かれている)
posted by おおおかとしひこ at 12:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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