2015年09月22日

映画と小説の作劇は異なるか?

異なる。
別物だ、という理屈はよく聞くが、
どう別物かを議論したものは、
技法上になってしまい、
物語性そのものに踏み込んでいない。

ということで踏み込んでみる。

両者の差は、技法的には絵で示すか文で示すかの違いだ。


たとえば、小説「てんぐ探偵」の最終回。
「炎は、小鴉からではなく、シンイチ自身から出ていたのだ。」
という地の文は、
映像にすると役割が変わってしまう。

 シンイチの体から炎が生まれ、
 それが右手を伝わり、小鴉の中からの炎になる。

というようなト書きにうつしたとしても、
元々の地の文にある、
「そうだったのか!」という驚きはない。

映像でそれをするには、
シンイチ「これは、小鴉の炎ではなく…俺自身の炎」
と、「分かった!」瞬間を、芝居で示さなければならない。

「分かった!」という芝居は、
コントならガッテン!みたいに手のひらに拳をうちつける、
みたいなのが出来るだろうが、
リアルな三人称芝居なら、はっとする、ぐらいしかない。
分かった内容は、コントならホワンホワンと出た吹き出しの中に示せるが、
リアルな芝居なら、その内容を誰かに説明するか、
独り言か、
台詞なしの一枚絵で示すしかない。

これが、小説の地の文なら一文で可能である。



こういう細かなことが全体に影響してくる。

たとえ同じ物語だとしても、
小説によって活写された物語と、
映画によって活写された物語は、
質的に異なっていくはずだ。

どう違うかを一言で言ってみる。

映画は実況アナウンサー、
小説は解説者である。


楽譜の話でも以前書いたが、
さらに極論して踏み込んでみる。

スポーツでも社会派ニュースでもいい。
解説者の立場が小説であり、
実況アナウンサーの立場が映画だ。

たとえば、将棋はどちら向きか。

実況アナウンサーの言葉(四六歩とか、
汗をかいています、とか、痛恨さが表情から伝わります)よりも、
解説者の言葉(これはこういう狙いで、
これは○年前の勝負の再現になる、
セオリーではこうなるがゆえ、敢えてセオリーを破りに来た、
これは彼の挑戦だ)のほうが、
圧倒的に将棋を豊かに描ける。

勿論、どちらか一人しかいない、という訳ではない。
映画では実況:解説が8:2に、
小説では実況:解説が2:8になる、という話である。

従って、将棋という題材は小説むきだ。

(「三月のライオン」はどうか?
将棋の勝負ではなく、盤外で起こるドラマに焦点を当てている。
つまり題材は将棋ではないことに注意しよう。
そして独白が多いことから、ドラマ化映画化に向かない題材だ)


初々しい中学生のデートはどうだろう?

解説せずとも、実況だけで何が起こっているかはすぐ分かる。
ドキドキして何も言えない二人の表情や、
ぎこちない手の繋ぎ方などが全てを語る。
偶然ラブホ街に迷いこんだりするアクシデントも、
解説より実況むきだ。
これからどうなるか?というリアルタイム性が楽しい。

つまり、初デートは映画むきである。


これを解説者で解説した面白さが、
森見登美彦の小説「夜は短し歩けよ乙女」である。
初デートではないが、
実況したら大したことないことを、
延々と解説するさまが、
こじれた童貞のようで大変面白い。
しかも文体がマジックリアリズムであるので、
七色の解説になるところが最高だ。
(ちなみに五年前から映画化を狙っていて、
既に脚本はあるのだが、実現しそうにないので、脚本あるよ、
と公言してしまおう。
読みたい映画プロデューサー、連絡ください)



実況と解説の差を考えれば、
物語性の差が浮き彫りになるのではないかな。

偶然性、緊迫性、ナマ性、感情、とっさの反応、爆発、などが実況。
必然性、総合的見地、理屈、可能性を尽くす、因果関係、などが解説。

映画と小説の作劇は異なるか?
異なる。
それぞれの特徴向けに特化したものが、
そのメディア内で面白がられる。


小説の映画化は何故失敗するのか?
小説らしい小説、つまり解説が面白い解説を、
実況アナウンサーに仕立てあげるからだ。

映画のノベライズは何故失敗するのか?
映画らしい映画、つまり実況アナウンサーが面白い実況に、
解説してしまうからである。

成功する場合は?
解説と実況が5:5のものを選ぶと、うまくいく可能性がある。
しかし、本家に比べ確実にイマイチと言われるだろう。

大成功する場合は?
解説を全部捨てて、実況アナウンサー100%に新しく組み直すこと。
ノベライズなら逆。


漫画の例だけど、
ドラマ「風魔」の成功要因は、漫画のままじゃダメだと僕が強く思ったこと、
映画「いけちゃん」の失敗部分の要因は、漫画のままでいい、と僕らが油断していたこと。


漫画でも小説でも、そのまんま持ってこれるから楽じゃん、
というのが原作つきの映画化をする安易な理由のひとつだが、
それがいかに愚かかは、
この解説で明らかになっただろうか。

そもそもそれは、塁々たる死体の群れが証明している。
その根本の原因について、物語性から解説してみた。
(勿論、出資されやすいという、投資上の問題があるのだが、
それについては他で議論している)
posted by おおおかとしひこ at 15:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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