小説を書いてみて、脚本との違いがいくつか分かった。
そのひとつ。
脚本では登場人物の外見を定めない。
顔つき、髪型、体格、服装、癖、アイテムなど、
小説ではその造形の描写が人物を決めたりするのだが、
シナリオでは、一切書かない。
人物のバックストーリーを示すもの
(たとえばボロボロの着物で落ちぶれた侍を示すなど)
や、以後のストーリーで使うもの
(たとえばメガネをしていて、
メガネを谷底へ落として絶体絶命になるシーンがあるとか、
ジッポをもっていて、夜それをつけることで救助隊から発見されるなど)
に限り書いておくことはある。
ブレイクシュナイダーが「松葉杖のテクニック」で示したように、
外見上の癖をつけるのは、活躍しないサブキャラにするものだ。
何故かというと、
シナリオでは役者に最大限制限をかけないためである。
身長180以上の役者だと、
今日本の俳優では照英とEXILEのアキラの二択しかないから、
高身長を主人公にすべきではない。
(ドラマ風魔での、劉鵬黒獅子のキャスティングの考え方は、
内面重視だ。一応マックスガタイのいい役者を使ったが、
それでも霧風や兜丸のほうが背高いんだよね…)
同様に、ヒロインの髪型が、ストーリー上必要ないなら、
ショートカットでもロングでも黒でも茶でも金でもよいはずだ。
日本人のキャスティングよりも、
黒人白人アジア人の混じるハリウッドでも、
原則は同じである。
黒人ゆえに差別される話ならその役を白人がすることは出来ないが、
運動神経に優れリズム感があるぐらいなら、
白人が演じることは可能だろう。
瞳がブルーだろうがグリーンだろうがヘイゼルだろうが、
ストーリーで使わないのなら、
シナリオでは書かない。
しかし小説ではよく書き込まれる。
サファイアのような青の瞳が印象的なのは、当然のように書く。
つまり小説では、映画にたとえれば役者を決めて撮影もしている。
シナリオは、オーディション前の状態のものだ。
ここから、どう役者や撮影で表現していくかの前段階だ。
ここから、役者や監督が、撮影で彫り込める余地を残しておくのだ。
しかし、やること、言うこと、その場所は決まっている。
どうしてそうなり、どうしてああならないかも決まっている。
誰と誰がいて、それらがどう絡んでどう進み、最終的にどうなるかも決まっている。
どういう性格か、言動からにじみ出るように作られている場合もあるし、
わりとフラットにしておいて、
監督や役者があとで癖づけを創作しやすいようにしてある場合もある。
人物造形の中身は決まっているが、外側は決まっていない。
僕はシナリオ出身だから、
ついつい小説でも外見描写をしない癖がある。
今、てんぐ探偵を技術的に再読中なのだが、
芹沢やモロ道などの脇役が立ってるのは、
外見描写がちゃんとあるからだな、と分析している。
たとえば個性的な役者を使うのなら、トン子や、
ミヨの兄なんかも、同じぐらい立つキャラなのに、
外見描写がほとんどないので、
小説上の比較ではキャラ負けしているのだ。
人物の彫り込みには、
内面と外面がある。
シナリオは主に内面(動機、目的、過去、使うのなら性格も)、
小説はそれに外面を加えて、彫り込みを深くする。
小説サイドからすれば、
え?外見書かないの?という驚きがあるかもね。
それは風景描写や、アイテムの描写なども同じくだ。
シナリオはそのカットを撮ることの指示のみで、
大体の編集尺を反映している。
美しい風景を何ページも書かない。
一行程度だ。
銃のボルトアクションを何ページも書かない。
一瞬で終わることは一行でかく。
逆に見ると、
シナリオで書かれるのは、その人の内面的魅力だけだ。
内面的魅力は、その人の中から描写するのではない。
シナリオは三人称形だから、
誰かと絡む中で端々に出るようにするのである。
そういうことが書けない人は、
内面的魅力を描く力がないのだ。
2015年09月23日
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