2015年09月23日

魂のない上っ面(セッション批評)

見逃していた作品、ようやく借りて見れました。

上っ面はいいと思うよ。
ラストのだましあいに近い逆転劇も面白かった。
楽譜がない、密告したのはお前だな→
泣いて降板→父親離れ→先手を打つアドリブ
→指揮をしはじめる
→ラストに叫ぶ(口元が隠されていたが、
流れを見る限り、才能を花開かせない最低の言葉、
Good Jobだということは分かる。
最後の試練を与え、更に高みに上ろうとしたのだ)
のやり取りは、ボクサーの殴りあいのようだった。

しかしだ。
ここでもテーマのことが顔を出す。
で、この話のテーマは?


はじめての練習に参加するとき、
たしか「音楽をやる理由」について聞かれたはずだ。

僕はここが肝になるべきだと思った。
途中のシーンで、主人公は偉大になりたい、
と若者らしい言葉でそれを具体化していた。

じゃあ教授はどうか?
彼が音楽をやる理由。

そこが見えないから、
この話は単なるドラムプロレスの逆転劇を楽しむだけの映画になってしまったのだ。

ドラムだろうがサックスだろうが、
演劇だろうが、和の芸能だろうが、
楽譜のある集団ものなら、何でも成立してしまう脚本に過ぎなかった。

最大でかつ致命的なのは、そこだと思う。

なんでもいいんだよ。
「人間の孤独を癒すのは、音楽しかない」でもいい。
誰からも理解されない二人が音楽でしか会話できないのでも、
構わない。
なぜ馴れ合わないかの、それが理由でもいい。
「孤独を癒す音楽のために、俺は孤独を選ぶのだ」でも、
構わない。

音楽をやる理由。
その個人的な動機が見えなかったのが、
映画として不十分だったと思う。


勿論、ミッドポイントの交通事故からの血まみれドラムは面白かったし、
退学の意外な流れからの復活劇
(ボトムポイントから第二ターニングポイントの、
基本通りの流れ)も楽しめた。

しかしだ。
主人公二人が、音楽をやる理由、
つまり、動機と内的問題が不明瞭だったことが、
せっかくのドラマを、
単なる対決プロレスに堕してしまった。

たとえば「アマデウス」では、
凡人サリエリがモーツァルトに嫉妬するという、
とても人間臭い動機があった。
だから物語になったのだ。

ラストの演出、途中の事故など、
特筆すべき表面上の何かがあったにも関わらず、
真芯に当たるものがなかったのが、
残念な作品だ。


スパルタでいえば、「愛と青春の旅立ち」、
その狂気については「フルメタルジャケット」に、
勝るものはない。
セッションごときですげえとか言ってる若者は、
この辺りを見てから、
セッションは物足りないね、と言うべきである。
posted by おおおかとしひこ at 16:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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