その主観的感情を、他人に共有してもらう為には、
どうするのがいいか?
その感情に至った、事情を話すことだ。
こうこうこういう経緯で、こんなことになったのだと。
なるほど、それは○○だね、と思わせるのがゴールだ。
つまり、主観的感情を客観的感情に変えるには、
同情しかないのだ。
同情というひとつの言葉に集約するのは、
乱暴に過ぎるかも知れない。
だけど、自分が怒ったのと同じぐらい、
相手が怒りの感情を理解し、共有してもらうには、
事情を話す以外にないと思う。
同情以外なら、説得の部分もある。
こういう理由で、こうなったのだ、
という理屈を示すことで、
そういう事情ならばそういう感情になるのも当然だ、
と、理屈で理解してもらうのだ。
同情を引く、という言葉からは、
つい悲惨な状況を見せて可愛そうに思ってもらう、
というイメージがあるから、
事情を話して説得し(そこに至るまでの理屈を述べ)、
そこから発生した感情に、同情してもらう、
という理解をするほうがいいかも知れない。
同情とは、この場合、
可愛そうに、ということではなく、
あなたの主観的感情の、
全ての感情のタイプに起こるべきである。
つまりあなたは、
あなたの主観的感情に対して、
事情を話して、同情してもらえばいいのだ。
それがあなたという個人の感情ではなくて、
話者と聞く者以外の人、
すなわち第三者の人物の感情ならば、
それは殆ど三人称形の物語形式である。
つまり、三人称形式の物語とは、
「第三者の人物の感情を、
まるで主観的感情になるように、
事情を話して説得し、同情してもらうこと」
だと言ってもよいのだ。
メアリースー的主人公を書いてしまう素人は、
「わたしの主観的感情を、
観客の感情の行方については関心がなく、
説明なしにどや顔すること」
を書くから、全く間違いなのである。
三段階も間違えているのだ。
俺が好きなものはお前も好きだろ?
という、ジャイアニズムに満ちている。
(僕が時折ちんこの押しつけというのは、その嫌悪感を示している)
客観性がないというよくある批判は、
自分の主観的感情にしか興味がない、と裏返せるのである。
主観と客観の差を上手く表現することは難しい。
客観的でいるつもりの主観がいつもいるからだ。
この客観は主観か客観かは、答えがない。
だからそこばかり考えても答えは出ない。
主観と客観の底無しの罠から出るには、
他の作品との比較だ。
名作と駄作を死ぬほど見て、
その中のどの辺にいるかは、
主観も客観もあまり関係がない。
数を見ていなければ主観的になるが、
数を沢山見ていれば、ある程度客観的になるものだ。
もっとも、名作が素晴らしすぎて、
自分には無理だと挫折するかも知れないし、
自分の作った話が、駄作と対して変わらないことに気づいて、
自殺するかも知れない。
同時代、同じ年齢の作者の作品と比べても意味はない。
どうせあなたがプロでやっていく頃には、
その人はいないかもっと先に行っている。
過去の名作全てと比較した上で、
自分の作品の歴史的位置について考えたほうが実りがある。
大体、主観的なものしか書けない奴は、
過去の名作を知らない。
知っていれば恥ずかしくて発表すら出来ないはずだ。
まだまだ勉強が足りないです、
と一生勉強しないと、過去の名作は沢山見れない。
(一生かかっても、全ての文学と漫画と映画を観ることは不可能だ。
五億年ボタンを押せるなら、僕は五億年かけて、
古今東西の名作と駄作を全て見てみたい。
しかし最近のTSUTAYAの揃えの中途半端さに怒りがつのる。
過去の名作の並べ方が悪すぎる。
タイトルとジャンルだけで分かるわけないやん。
初見殺しやでこんなん。
キュレーターが必要なのではないだろうか?)
数の基準?とりあえず1000本。年間50で20年。年間100で10年。
「第三者の人物の感情を、
まるで主観的感情になるように、
事情を話して説得し、同情してもらうこと」
の例を1000本見れば、大体わかるというものだ。
200程度じゃ足りない。そのうち名作は数十本。
500見て、大体のジャンルをカバー出来る程度。
1000で、どのジャンルの名作も複数見てるレベルかな。
2015年09月24日
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