僕は昔から小説には馴染みがないので、
よくある、
「主人公が最後一歩踏み出して終わる」形式のエンドが苦手だ。
それは映画でたとえれば第二ターニングポイントで終わるのであって、
これからのクライマックスがないことに等しいからだ。
これは、主観的変化と、客観的変化の差ではないか、
といつも思う。
物語は主人公の変化を描く。
これに異論はないだろう。
ある期間を切り取るわけだから、
その間変化を一切しないのは変だ。
変化しないほど詰まらない日常は、
売り物にはならないからだ。
(アンチテーゼのように、
アンチドラマチックなリアルを標榜した、
オフビートという流れもあった。
例えばジムジャームッシュだ。
若者は飛びついたけど、
あとには何も残らなかった。
「ストレンジャーザンパラダイス」も、
「コーヒーアンドシガレッツ」も、結局何にもなっていない)
その主人公の変化が、テーマに関係している。
そこまでは了解事項としよう。
さて、
小説は大抵一人称形だ。
主人公の内面を地の文で描く。
描くべき対象はインナースペースであり、
だから、主人公の変化は、内心の変化を克明に描くことが出来る。
内面の変化を描きつくし、
それで変化のクライマックスを描いたことになるから、
その結果としての行動は、最初の一歩を示すだけで十分だ。
「あとはご想像にお任せします」という品のよい終わりかたである。
ところが、三人称形はそうではない。
内面はカメラで撮れない。
カメラで撮れるのは、人物の表情とパントマイムであり、
マイクで録れるのは、人物の声と何かの音だ。
内面の変化は、外形に表れない。
(だから、内面の変化が外形の変化に表れる、
「変身もの」は古今東西大人気だ。
ヒーローものから身分を偽るもの、欺くもの、
魔法で姿を変えられるもの、他人とそっくりになったり、
入れ替えられるもの、二重生活など)
従って、内面の変化を示すには、
自分の外へ何かをすることでしか示せない。
「自分の外へ何かをする」だけでは、
その人が何を目的をしたのか分からない。
それが結果を出して(結果を絵で見せて)、
はじめてその人が何を目的としたか分かる。
つまり、三人称では、
その人が外へ何かを働きかけ、
結果を出したことでしか、内面の変化を示せないのだ。
だから、ロッキーは試合を耐え抜き、エイドリアンと叫んで抱き締める。
そうでないと、「自信が生まれた」かどうか、
傍目には分からないからである。
一人称なら、たとえば、
ロッキーは試合を耐え抜き、最終ラウンドまで立って闘った。
男の誇りを取り戻したのだ。
ロッキーは、愛する女の名を、叫ぼうと決心した。
で終わらせても問題ない。
しかし三人称ならば、
エイドリアーンと叫んで、抱きしめ、
これが俺だと言い、両手をあげるまで、
「完了して見せる」をしないと、
主人公が本当に変化したかどうかは、分からないのである。
つまり、
主観的変化は自己申告制であり、
客観的変化は、証拠制である。
女がイッたかどうかは自己申告制だ。
だから男は、永遠に証拠を求めるのだ。
体が痙攣したら、とか、汗をかいたら、とか、爪先がピンとなったら、とかだ。
法廷闘争でも同じくだ。物的証拠の有無である。
それは、主観的世界を、客観的世界に変換する行為だ。
僕は、
「落下する夕方」のエンド、「桐島、部活辞めるってよ」のエンドを、
認めていない。
主観的変化は訪れた、というエンドに過ぎず、
客観的変化を示していないからだ。
三人称形の物語なら、ボトムポイントから第二ターニングポイントのどこかで、
主観的変化があり、
それが客観的変化であることを証明するのがクライマックスだと言える。
(桐島に関しては映画部がクライマックスのゾンビをやっているため、
まだ救われている。もし野球部が主人公だったら、
「落下する夕方」テンプレにおさまってしまっただろう)
僕はこの客観的変化形式のエンドに、映画で慣れすぎているため、
主観的変化を一人称で描く小説の終わりかたに、
いまだに馴染めないのだと考えている。
映画「いけちゃんとぼく」の編集中、
某プロデューサーが、
クライマックスの野球シーンを全部削ろう、
といういまだに解釈不能な提案をしたことがある。
僕の何が足りないのかいまだに分からないのだが、
1. たいして面白くないクライマックスだった
2. 主観的変化はいけちゃんがいなくなることで示されている、
という判断から、客観的変化を描く必要なしと、誤判断した
のどちらかでないかと思っている。
しかし、あの映画で一番オモロイのは、その前辺りから入道雲までなのではないかねえ。
(ラストは鉄板、というのは置いといて)
まあ本人にも分離されていない感情だったのではないか、
と今なら遠い目で見れるが、
当時は何を言い出すんだこのキチガイ、
としか思っていなかった。
あ、
3. 俺の思っていたクライマックスと違ったから修正したい
というのも追加しとくか。
自分の思うイメージを言葉で説明できないくせに、
見せたら何か違う、という後だし野郎を、
僕はプロと認めないけど。
そして映像の製作現場は、金を出す素人が混じることで、
それらの権力闘争になりがちなのも事実だが。
(結局、今業界に必要なのは、
プロ中のプロで、しかも制作費を持ってる人なのだ。
どこにいるのかは、しらん)
それほどに、
主観的変化と客観的変化は、異なる。
あなたが変化しても、他人にはなんのことやら不明である。
あなたの機嫌が変化したのに気づいてくれるのは、
あなたと親しい人だけだ。
表現とは、あなたに親しくない人に向かってすることである。
2015年09月24日
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