どうも最近の映画が印象に残りづらいのは、
年のせいもある(既に見た過去の大名作と同等ならば評価しない)
かも知れないが、
イコン性を考えた絵作りをしてないような気がしている。
フィルム時代のフィックス演出と違い、
軽量化されたデジタルカメラでは、
手持ちや手ブレで、
臨場感や緊迫感を入れてくるようになった。
リアリティーといえば聞こえはいい。
リアルな間を、まるでそこで体験しているかのような、
動物的動きの感覚が得られる。
ところがだ。
動きまくり、切り返しまくるカメラのせいで、
落ち着いてフィックスで語る絵作りが、
喪失してしまった気がするのである。
落ち着いて語るのは古い、
今は目まぐるしく変わることが本質だ、
と若いやつが考えるのも分かる。
が、芸術とは、それをそのまま保存することか?
デジタルカメラの絵作りは、
今、シネスコ方向に向かっている。
従来の横長(1.85や16:9)よりも、
左右が広い絵だ。
人のサイズはいくら画質が向上しても変わらないから、
背景を豊かに撮るために、
左右を広げる考え方だ。
それによって1カット当たりの情報量は高まり、
一見リッチになったような気がする。
気がするだけだ。
絵の物理情報量が上がっても、
絵の本質的良さに変動はない。
(ドット絵でもゲームは面白かった)
絵は、それで結果ではない。
絵によって、我々の脳内に何を構築するか、
が実は絵の目的なのだ。
ドット絵がしょぼいという馬鹿は、
真剣にゲームをやってなくて、
表面的な絵しか見てないのではないかな。
ということで、
デジタルカメラの絵作りは、
画素的な情報量を持て余している。
フィルム時代なら、
フィックスで、どれを落としていくか向き合ったのに、
デジタルカメラは、
手持ちにしたりシネスコにしたり、
手前にフレアを入れたりと、
見かけの情報量をどんどん増やしているだけだ。
これが、映画からイコン性を奪っていると思う。
イコンになるかどうかは、
絵が整理されて、一枚のシャシンとしてデザインが効いてるかどうかだ。
ありていに言えば、一枚のシャシンが、
マークのようになっているのが理想だ。
だからイコンには複雑化はいらない。
単純にマーク化することが必要だ。
(佐野デザインは、マーク化されているという、
根本的な形の所はあっている。
その本質、何がどうマークに変換されているかが、ダサイ)
マークとは、横長ではない。
正方形に近いものだ。
だから、最近の映画は、 どの場面もマーク化されておらず、
イコンがどこにもない。
例えばセッション。
宣伝ビジュアルは、
黒バックにドラムを挟んだ師弟の絵だった。
このようにイコン化された場面は、どこにもなかった。
ラストの場面でスポットライトがつき、
バックバンドや観客の存在を消して、
二人とドラムだけの絵を見せることも出来たはずなのに、
そんなカットは1カットもなかった。
だから、記憶に残らない。
思い出そうとしても、
雰囲気や流れや緊迫感といった、曖昧なもので、
一枚のシャシンを思い出すことはない。
だから、僕は駄目だと思う。
手持ちカメラで臨場感、
シネスコで横長に。
この方向性は、映画を情報量の多いドキュメンタリーにするかも知れないが、
記憶に残るシャシン(イコン、マーク)には決してならない。
相変わらずペプシ桃太郎を批判するが、
あのCMも横長のシネスコだ。
あのCMの中の、代表的な1カットはなにか?
どのカットと選べるほどの、
イコン的な、マーク的なカットがなかった。
だからふんわりしたイメージしか残らず、
雰囲気のみが記憶に残るだけだ。
当然だ。イコンに足るテーマが存在しないからだ。
イコンは、本来、テーマを象徴する絵でなければならない。
少なくともテーマに直結するモチーフでなくてはならない。
そうではないと、その作品の本質を、
マーク的に示したことにならないからだ。
最近の映画は、イコン性がない。
絵作りのせいか。
テーマ性のせいか。
フィックスでズバリとテーマを表す、
イコンはあるのか?
それが美しく、印象的で、なおかつ新しいのか?
それが、新しい映画を作るということだ。
ということで、最近の映画は、
どれも昔の名作のどこかの組み合わせか、
それに足りない何かにみえがちだ。
以前、イコンは縦長かも知れないと予測した。
イコンはマークだ、という考え方だと、
正方形付近が正しい気もする。
縦長も、正方形も、シネスコや手ぶれと相性最悪である。
あなたは、脚本で絵作りやイコンまで考えるべきか?
少なくとも、こういうイコンになる、
というテーマ性を、新しく提出すべきである。
2015年09月24日
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバック