自分の黒歴史ノート、という言い方がある。
中二の頃落書きしていた、
中二病溢れる創作ノートだ。
それを高校生ぐらいになって急に恥ずかしくなり、
封印する。そして二度とやらない。
二度とやる人は、そのうちアマチュア作家になり、
プロになる。プロにならずとも二次創作を続けたりする。
自分の過去作を読んで、猛烈に恥ずかしくなったり、
涙を流すほど詰まらないことにショックを受けた経験はあるだろうか。
これがないと、強くなれない。
自分が最高傑作だと胸を張っていたものが、
王様は裸だと気づいたときの、
虚しさ、恥ずかしさ、消えたさを、
嫌というほど経験するべきだ。
傷つき、落ち込み、布団に籠って引きこもり、
その黒歴史をガクガク震えながら、
なかったことにしたいという思いに、
恐怖にとらわれることだ。
それを克服出来ない限り、
客観性を得ることは出来ないと、僕は思う。
自分に才能がないと、ちゃんと自覚すること。
思ったような全能感などなく、
その辺のアマチュアと、対して変わらないどころか、
最低の出来で、これを最高と思っていた自分を絞め殺したいこと。
そこにたどり着くことが出来ないと、
あなたは創作のスタートラインに立てない。
客観性のないバカは、
ダサイクルを作ってその殻に閉じこもる。
僕が大学の映画サークルがとても嫌だったのは、
そういう雰囲気だ。
(そして今いるCM業界がそうなりつつある。
ACCはサロン化しているし、
サノケン周りはどう見てもダサイクルだ)
自分の才能の無さを認めるのはとても怖い。
自分が思っていた全能感から、叩き落とされるからだ。
赤ん坊が、おっぱいに囲まれた全能感から、
急におっぱいが無くなって泣き叫ぶことを想像しよう。
その赤ん坊は、生涯最大の恐怖と喪失感に苛まれている筈だ。
自分は全能でないことに恐ろしくなり、
傷つき、全能でない世界を拒否しているのだ。
そうやって赤ん坊は幼児になり、転んでまた泣く。
自分は全能の常に歩ける人ではなく、
転ぶ不完全なヒトであることを知ってまた泣く。
おっぱいが必ずない時点で自殺したくなる。
転んだ時点で自殺したくなる。
自分の創作が詰まらない時点で自殺したくなる。
そうする人は、いるかも知れない。
しかし人は立ち上がり、
懸命に生きる。
生きる理由は分からないが、それは本能なのだろう。
あなたは、自分が全能でないことで、
泣いたことがあるだろうか。
そんな経験もないやつは、ずっとおっぱいしゃぶって、
揺りかごのなかに眠ってろ。
世界は厳しい。
あなたは、その厳しさに、無能であることを知った。
次回作は、無能と闘い、
それでも尚価値のあるものを作る、生き方をすればいい。
もちろん無能を自覚して筆を折ってもいい。
無能を知ることは、
大人への第一歩だ。
無能なことが客観的に分かったのなら、
あなたは自分を鍛えることが出来る。
鍛えるモチベーションなんて、
自分が足りないことの自覚以外にない。
そしてプロは、生涯自分を鍛える人のことだ。
北斎なんて、死ぬまでまだ絵が上手くなりたい、って言ってたんだぜ。
自分の原稿を客観的に見て落ち込む経験のない人は、
ここを去れ。誉めあうダサイクルに戻れ。
泣いて、傷ついて、落ち込んで、
それでも尚価値のある次回作をつくろうとする人だけが、
価値のあるものをつくることが出来る。
今価値のあるものをつくっている人は、
偶然それをつくれた一発屋か、
プロかのどっちかだ。
あなたは一発目を外した。
だとしたら、プロ中のプロになるしか、
道はない。
ということで、てんぐ探偵、リライトしております。
2015年09月25日
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバック