2015年09月26日

創作の原動力はどこから来るのだろう

僕は、
「これ面白いぞ」しかないと思う。


オナニー作品だろうが、
歴史的傑作だろうが、
「俺はこれが面白くてしょうがないと思う」
というほとばしりだけが、
人を巻き込む力を生み出す。

情熱は伝わる。熱意は伝わる。信じる力は伝わる。
逆に、それがない作品なんてただのきれいな額縁だ。



問題は、それが自分一人にしか通用しない、
レベルの低いやつが増えたというだけの話だ。
他人に強制されて嫌々作ったり、
各方面の調整の結果だったりするものも、プロ作品に散見される。

調整するのがプロ監督の仕事だなんて誤解しているプロデューサーすらいる。
俺たちは、お前らの商売上の利益を調整することになんの興味もない。

魂が震えるか震えないかにしか、興味がない。
そうでもなかったら、ここまで自分を削り取るような仕事を、
一生の仕事にするわけがないだろう。


他人の顔色伺うぐらいなら、
どうしてもこれが作りたかったんだよ!
という情熱を燃やさなくてはならない。
しかも、一人だけのオナニーの炎でなく、
全ての人を巻き込む、おおきな炎をだ。

ひとつヒントを置いておく。
「かつて見たものを自分でもやってみたかった」は、オナニーだ。
「誰も見たことのない、新しく面白いこと」が正解だ。

たとえば、風魔の6話、「崖から落ちる人形」は僕の前者だ。
しかし冒頭とラストの、墓の前の小次郎と霧風の会話は、
僕が考えて書いた後者だ。


それはとてつもなく難しい。
最も私的な、最も公的な人に、あなたはならなければならない。
posted by おおおかとしひこ at 16:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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