という評論をネットで見た。
全く的はずれだ。
http://news.livedoor.com/lite/article_detail/10635358/
映画的構成になっていないからだ、
というのが主たる理由だと思う。
映画的構成とは何か?について語る前に、
その他の構成について考えてみよう。
たとえば論文なら、
概要、問題点の指摘、
これまでのやり方ではうまくいかないことを示し、
新しいやり方や発見について解説、
予想される反論への回答をし、
議論を深め、
結論の妥当範囲を出す。
ポップスなら、
AメロBメロサビという基本構造を1番として、
前奏、1番、間奏、2番、長め間奏、3番、後奏
という構造だ。
1番の歌詞が基本を歌い、
2番がその裏や全然違う部分を歌い、
3番がそれらを統合する内容になる。
1、2、3番の関係は、前振り、展開、落ちと考えてもいい。
あるいは料理なら、
食前酒→つまみ→前菜→メイン→デザート
のようなコースがある。
これらは、時間軸を持つものの構造だ。
建築の設計図や組織図や人物関係図のような、
時間的に不変な構造とは違うので、
構成と言ったりする。
ダンスの構成、披露宴の構成(式次第)、なども同じくだ。
映画にも構成がある。
有名なのは三幕構成という。
簡単に言うと、
一幕で問題を示し、
二幕でその解決の為のアイデアと実行過程を示し、
三幕で解決し変化を示すものだ。
(これは大岡式三幕構成で、
伝統的なシド・フィールドの三幕構成と名前を変えている)
さて、松本人志の映画は何故微妙か?
構成を外しているからである。
構成とはリズムだ。
お話の進むリズムは、調子っぱずれから、ノリのいいものまである。
松本人志というお笑い作家は、
これまでのものを壊すことで笑いを生んできた作家であり、
そこの評価が崩れることはない。
しかし、松本が面白いのは、
浜田がいるときだ。
(浜田がいなくても、「他の人との会話のなかで」成立させる)
松本の笑いは、会話しようとするセオリーを外して笑いを取るのである。
「テトリスの達人という松本さん」という話を始めようとするときに、
ゲームの話をするセオリー
(攻略法とか、何万時間やったとか、積み方のコツとか)を外して、
「テトリスの角が丸くなるまでやりました」
と来るから面白いのである。
その発想の面白さ、ズレ方、外し方が松本の笑いの本質だ。
さて、松本人志の映画は何故微妙か?
松本人志の外しという本質が、
内容と構成の、両方を外しているからだ。
松本のいつもの笑いは、二人の会話のなかでの外しだったことを考えよう。
浜田のいるときのボケツッコミの中での外し、
HEY!HEY!HEY!での、インタビュー会話のなかでの外し、
ガキ使の葉書の質問への返しとしての外し、
などなど、
「決まった構成の中での外し」が、
実は松本の得意技なのだ。
構成の前振りを外す、
浜田に進行させといてそれを外す、
こういう落ちやろと予測してそれを外す、
外すから浜田のツッコミもきつく、だから面白い。
ボケツッコミの本質は、
ボケが違うこと(常識にないこと)をやり、
ツッコミが「元の軌道に戻す」ことによる笑いだ。
テトリスの角が丸くなるまでやりました。
なんでやねん!(=コンピュータのゲームやから、
角が丸くなるわけないやろ、将棋の駒なら分かるけど!
コンピュータの話をせいや!)
の、なんでやねん!がないと、
成立しない笑いなのだ。
つまり、松本の笑いは、元の軌道に修正しないと面白くない。
確固たる常識の枠があるところで、
どこまでいちびったれるか、という笑いだ。
(いちびりという関西弁は共通語に訳しにくい。
かぶく、という花の慶次の感覚が近い)
さて、映画には二本の柱がある。
構成と内容である。
松本は、構成も内容も外してしまったのである。
松本の普段の笑いは、ツッコミによる軌道修正があり、
話の進行、つまり構成に関しては、ガッチリと決まっている。
松本はそれを、内容的にも外そう外そうとするから面白いのだが、
ツッコミによる軌道修正がないと、
構成がどんどんと消失していくのである。
前振り→外した→軌道修正指摘、次へ→それも外して笑い
→ツッコミ入れてハイ次いきます→…
ということがあるからこそ、
(その後編集もあって)
時間構成的に、松本の笑いはそもそも構成がしっかりしているのだ。
勿論、本人が構成しているのではなく、
構成の役割は浜田である。
浜田の「ハイ次〜!」は、
構成のターニングポイントなのである。
松本の映画には、浜田がいなかった。
つまり、構成に関してのリズム隊がいない。
そこでリズムがぐにゃぐにゃになった、
音楽のようになってしまったのだ。
ただでさえ松本の笑いの内容はシュールである。
内容がぐにゃぐにゃに曲がるときは、
構成がしっかりしているといい。
真っ直ぐなものがあってはじめて傾いていることが分かるからだ。
内容がボケ、構成がツッコミ、に当たるのだ。
逆でもいい。
全うな内容を、シュールなリズムでやればいい。
構成がボケ、内容がツッコミ、でも構わない。
これは、「パルプフィクション」という映画の構造である。
松本人志の映画は、ツッコミ不在のボケ倒しなのだ。
内容もボケて、構成もボケなのだ。
ぐにゃぐにゃを、ぐにゃぐにゃに撮っている。
だから真っ直ぐがどこか分からず、
これはぐにゃぐにゃしているかどうかも、
我々は判然としないのである。
たとえば、右下のワイプに浜田を登場させ、
常にツッコミを入れさせれば見れる筈だ。
例えば大日本人のラストだって、
なんでやねん!今までの話どこいってん!
今までのインタビューしてた人に戻してや!
終わりかい!ハイ、エンドロール入ります〜。
いやあなんやったんでしょうねこの映画。アホやなあ〜。
とツッコミを入れれば、まともに見れた筈だ。
松本人志の映画は何故微妙か?
構成と内容の、二つがぐにゃぐにゃだからだ。
どちらかをしっかりさせれば、
天才松本人志のボケが効果的になるはずだ。
そして松本の才能は内容のボケだから、
構成の時計係がいれば、必ず面白くなる。
つまり松本は、構成を勉強すればいい。
構成を守った上で、内容を崩していくと傑作が出来ると、僕は思う。
(あるいは構成のタイムキーパーに浜田を使うとか)
2015年09月27日
この記事へのトラックバック
いつもためになる記事をありがとうございます。
僕は映画脚本ではなく漫画を描いている者ですが、それでもとても助かっております。
さて、今回コメントをさせていただいたのは一つ質問が浮かんだからです。
未熟な質問かと思いますが、お答えいただければ幸いです。
「松本人志がメアリースーを生んでいる」ということは無いのでしょうか?
メアリースーとは、「とにかく全能な自分」をただ垂れ流すだけ、だと解釈しております。
つまり松本さんの場合は、「とにかく面白い俺」をただ垂れ流しているだけに見えるのです。
本来は「どこがどう面白いのか?」を視聴者に解説しないといけませんよね。
普段ならば、「松本のボケのどこが面白いのか」ということは、浜田さんがツッコミという形で解説しています。
もしくは、番組の構成という「常識」の枠があるので、松本さんがズレたことを言ったということがよく分かります。
だから客観視できて笑えるのに、今の松本さんは「俺は面白い」という全能感にあぐらをかいて、これらの努力を怠っている気がします。
構成とか、ツッコミとか、いわば基本中の基本ですよね。
松本さんがそれを知らないはず無いと思うのです。
しかしそれでも、あのようなつまらない映画が出来てしまうのは、
「そんなことをしなくても俺は面白い」という、ご自分の全能感に胡座をかいて、メアリースーを生んでいるせいではないのでしょうか?
いろいろと大変なことも多いかと思いますが、これからも頑張ってください。
それでは、失礼いたします。
僕は、松本は最初から構成を知らない、と考えています。
構成を崩すボケが松本の本領だからです。
浜田やココリコや放送作家の人(名前失念)が構成を担っていると考えます。
だから、一人の時の松本は構成がなってないのです。
MHKで僕はそれを確信しました。
ビジュアルバムのときは、短いからバレてませんでしたし、浜田やココリコもいましたし。
無自覚という点では、最初から今でもそうだと思います。そういう意味での裸の王様のメアリースーです。
初期の漫才ネタ。
クイズ番組で、松本が出題者。
「○○な人がいます。さて、どうでしょう?」
「どうでしょうって、何を答えたらええねん!」
みたいな奴を見て、
構成(クイズ番組というノーマルな枠組)を崩していくことが、
この人の持ち味だと、4時ですよ〜だをリアルタイムで見ていた世代として思いました。
(ちなみにこのあと、
「ええ感じなんちゃう?」
「ピンポンピンポン!」
「正解かい!」みたいに続きます。
既にある構成へのパロディとして成立している)
多分松本は、「なんか枠をくれや、崩して笑いを取るから」の天才ではないでしょうか。
枠、すなわち構成を担う、崩しても崩しても構成へ戻す、
別の人が必要なのだと考えます。
返信ありがとうございます。
大岡さんが書かれている「ふにゃふにゃになっている」という意味がよくわかりました!
大まかに考えると
既存の構成…浜田が作る
壊す存在…松本のボケ
既存の構成をメインに進行しつつ、松本人志がその構成を壊そう、壊そうとする。そして、それを浜田が既存の構成に戻す。
というのが、あるべき形ですね。
クイズ番組の漫才を例にすると、
(「クイズ番組」という構成を…)→「壊す」「戻す」「壊す」「戻す」…
という繰り返しなんですね。
しかし、例えば大日本人では
(「ヒーローもの」という構成を…)→「壊す」「壊す」「壊す」「壊す」…
となってしまっているので、既存の構成がどこか行ってしまい、形の無い何だかよくわからないものになってしまうのですね。
ひょっとしたら、「ヒーローもの」という構成すら、最初から無いのかもしれません。
お答えいただきありがとうございました!
それでは、失礼いたします。
大日本人の場合、
「インタビュー形式のドキュメントが、
ヒーローものだったら面白い」という枠組かと。
枠組そのものが既存のものを壊して成立しているので、
あとは壊れていく一方なんですよね。
例えば相手方にもインタビューするとか、
国会で議論されるのに密着するとか、
インタビュー形式そのものの枠を保ち続ければ、
毎度毎度壊すことになって面白くなったと予想します。
インタビュー形式(取材形式)を守り続けた傑作に、
例えば「放送禁止」があります。
この辺と比較して考えるのも面白いかなと。