昔の人のパクりは、記憶からパクった。
元ネタから大分変形し、改変されたいい加減な記憶を元に、
自分の手で一から作っていた。
だから結局その人の個性が出て、
自家薬籠中のものが出来上がっていたのだ。
結果的に、それはオリジナルをつくったことになった。
ビーフシチューを伝聞だけでつくったら、
肉じゃがという新しい料理を作ってしまったのと同じだ。
デジタル時代のパクりは、
ネット検索で出てきた、今目の前にあるものを無劣化でコピペ出来る。
だからばれないようにわざと劣化させて、
さらに組み合わせて、さらに劣化させる。
今のパクりは劣化だ。
昔のパクりは昇華だ。
方向性が、結果的に真逆だ。
あなたがパクりをしたいなら、
資料を一切見ず、記憶からパクり、
なおかつ自分のやり方を使って作品を作ることだ。
それはばれないどころか、称賛される。
だって一点のパクり以外は、
あなたは殆どポジティブ方向に力を使ったからだ。
デジタル時代のパクりは、
劣化隠蔽という、ネガティブ方向にしか力を使っていない。
僕が佐野を非難しているのは、そこだと思う。
デジタルは人を幸せにしない。
人の品性を地に落とす。
2015年10月01日
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバック