2015年10月05日

不安と確信を行き来する

ものづくりは常に不安と確信の繰り返しだ。

白紙を前に夢想した白昼夢を手がかりに、
具体的設計を組んでは、その出来の悪さに失望したり、
その白昼夢通りになっていることに満足したり、
客観的になってその白昼夢がそもそも子供の夢想と気づいて、
恥ずかしくなってしまうことの、
繰り返しだ。

それが可能なのは、最後まで書けてからの話だが。


実は、脚本というものは、
一文字目を書いてから最後の文字までを書いて終わりではない。
それはあくまで最後まで書いただけであり、
完成の乾杯はまだ大分先だ。
建築物なら見た目の完成が落成かもだけど、
脚本は違う。
これからリライトに入るからである。
最後まで書くのは、これからの労力を考えるなら、
1/10程度だ。
つまり、まだ十倍やることがある。

しばらく原稿を寝かせて(客観的になるため。一週間以上推奨)、
それを一気読みしたときの落胆は、
あなたが味わう一生の落胆のうち、
恐らく最も大きなものである。

実写糞ガッチャマンや、実写糞新橋の巨人を見たときの落胆より、
恐らく大きい。

あなたが楽器演奏者だとしよう。
楽譜を初見で、情感豊かに演奏できるだろうか?
否だろう。
まずは途切れ途切れで、
先がどうなるか分からないから、力の入れ所も分からず、
起伏をつけるなど不可能ではないだろうか。
それが演奏の完成か。
否だ。
そこから何度か通しでやってみて、
ようやく表現になってくるのではないか。
場合によっては長い期間の稽古も必要だろう。
ここは行けたという確信と、
ここはまだ不安だということの、
繰り返しではないだろうか。
全てがうまくいくようになったとき、
少なくとも表現の芯が出来て、
人様に見せるレベルになったとき、
ようやくひとつの確信が生まれるのではないか。

まあプロなら初見でどうにかなるかもだけど、
あなたはまだ楽器演奏の初心者なのだ。

脚本も同じくだ。

一回最後まで書いたのは、
楽譜を初見で一回通し演奏したことと大差ない。
どうせ途切れ途切れで書いただろうし、
全体のバランスを考えて強弱つけたわけではない。
それがベストのはずがない。

一気読みの推奨は、
通し演奏することと同じことを推奨している。
当然といえば当然なのだけど、
楽器演奏者の通し練習ほどには、
脚本家は一気読みをして調整をしないだろう。

一気読みを何度もせよ。
思ったほど出来ていない落胆を味わい、
そこをどうにかして直せ。
詰まらない部分を面白くしろ。
直して一気読みしたら余計悪くなるという経験も積め。

一気読みを何度もせよ。
出来ている部分はどこか、
確信をもて。
その確信だけが、
「この話を作ることは意味なんてないよ」という不安を払拭出来る。
一気読みをして、どこも面白くないのなら、
あなたには才能がない。
それを確認する意味で、一気読みをするといい。
落ち込んでやめちまうなら、それはいい淘汰だ。

どこか一点面白いのなら、
その確信を芯に、全体に波及させていけばよい。

脚本づくりは、
これは面白くない話なのではないか、という不安と、
いや、ここは面白い、という確信の間を、
行ったり来たりする。
作者だけが行ったり来たりする。
その振れ巾は、作中の感情の振れ巾の何倍もあるに違いない。

それでもなお完成に向かう作品は、
本当に面白いという確信のもと、
何度も通し練習をして磨きあげられた演奏のような作品か、
面白いかどうかわかんないやという子供のような作品のどちらかだ。
(そして糞進撃は後者の最たるものだ)

後者が増えて前者が減ったのは、
みんな自分が面白くないという事実に向き合うのが怖いからではないかな。


不安と確信を行き来する経験を、
死ぬほどしよう。
以前にも不安を確信に変えた瞬間があれば、
根拠のない自信には繋がる。
しかし以前の模倣は停滞である。
あなたは必ず新しい不安にぶち当たり、
必ず新しい確信を産み出さなければならない。

新しい面白さを作るということは、そういうことだ。


あなたは、どういう面白さを作るのか。
ある種の確信を持ってはじめるだろう。
そして落胆し、不安になり、
それでもひとつの確信を得るだろう。

その確信が誤解かどうかが、
作品の芯を決める。
あなたが古今東西の作品を勉強していないと、
過去に誰かがやった面白いことを知らないまま、
新しい面白さと誤認する。
井の中の蛙というやつだ。

過去の名作を勉強するのは、
過去から学ぶことと、
自分がやっていることが、
誰もやっていないことと確信するためにある。

新しい地平を切り開く面白さという確信は、
そこからやってくる。
無謀や無知や占いや幼児的全能感からは、やってこない。


不安をバイアスで歪めて安心するのは素人だ。
その不安や落胆から目をそらさず、
そこから客観的確信を得た作品、人だけが、
淘汰されずに何かをうち立てる。

経験で言うと、
その不安と確信は、何度も何度も波のように押し寄せる。
脚本家や作家は、傍目には躁鬱症のようなものだ。
確信のあとに不安がある。
どこか面白くないことに気づくからだ。
その不安を、新たに面白く作り直すことで確信に変える。
その波が激しくないと、面白い作品なんて生み出せない。
posted by おおおかとしひこ at 09:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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